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「光と闇」 ヨハネによる福音書3章16~21節

 教会の暦も降誕前第6主日となりました。イエスさまのお誕生を記念するクリスマスを待ち望む季節となりました。イエスさまの誕生の出来事とは、神さまが世を愛されたというその証の出来事であり、すべての人間に救いが差し伸べられた出来事なのです。

 しかし、イエスさまをお与えになるほど神さまが愛されたこの世、私たちの生きる世界とは闇が支配するところではないか、と思わされることもあります。コロナ禍もまさに闇であると思いますし、人権を蹂躙する支配体制の国に生きる人たちは暗闇の中に置かされていると言えるのではないかと思います。また、私たちの身近なところにも闇は存在します。自分の心の中に闇を持っているかもしれません。

 神さまは、このような闇の中にある私たちを救うために、イエスさまをこの世に誕生させてくださいました。イエスさまは「人を裁くためではなく、救うために」(3・17)来られました。闇のただ中にある人たちに光を与えるために、イエスさまは来られたのです。これまでに何らかの罪を犯した人であっても、自分の罪を悔いて、イエスさまを信じることによって救われるのです。

 しかし20、21節にありますように、イエスさまが光としてこの世に来られたにもかかわらず、人々は自らの行いの悪さ、心の闇が明らかにされるのを恐れて、イエスさまを信じようとしなかったのです。自分の中にある得体の知れない闇、それが光の下にさらされるのを人間は恐れるものです。しかし、イエス・キリストはご自分に背を向けているような人に対しても、背後から光を与えてくださいます。自分の罪を悔い改めようと、イエスさまの方へと向き直る時、イエスさまによってもたらされた光が私たちの心に差し込み、救いの出来事が起きるのです。

 私たちは、闇に覆われているこの世にあっても、イエスさまを信じることによって、光の中を歩いていくことができます。21節に「真理を行なう者は光の方に来る。」と記されているのは、光の中を歩んでいくということなのです。しかし、自分だけが救われればいい、救われていない人は闇の中の人間だ、などと思うことは間違いです。「真理を行なう」ということはクリスチャンのみがなしていく業ではありません。この世の不義を正し、この世に平和と正義が実現するように努力している人たち、弱い立場にある人たちのために心を砕き、体を張って奉仕している人たち、親切な心をもって人に接している人たちはみな、宗教を越えて「真理を行なう者」であると言えるのではないかと思います。

 私たちの生きる世の中には闇の力が支配しているとしか思えないこともたくさんあります。しかし、私たちが、心の底からイエスさまの名を呼び、助けを求める時、光が差し込み、光の中へ歩む者へと変えられていくのです。私たちの教会が、私たち一人一人が、イエスさまの示される光の道を歩んで行くことを求め、実現していく者でありたいと思います。

                2021年11月14日 降誕前第6主日礼拝 平島禎子牧師


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