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「救われるべき名」 使徒言行録4章1~12節

 古代世界においては、名前によって人と人を区別するだけでなく、その名前の持ち主の本質と能力とが結びついており、色々な人の名前を使って奇跡を行なう者がいたそうです。私たちの信じている「イエスの名」も力のあるものでした。弟子たちにとって、「イエスの名」というのは、大きな力でした。

 聖霊降臨の出来事の後で初めて「イエスの名」を使ったのはペトロでした。「イエスの名」によって、生まれつき足の悪い男の癒しがなされたのです。この出来事が起きた後、ペトロは神殿で説教をしました。(3・11~26) ペトロは、その中で、「あなたがたの見て知っているこの人を、『イエスの名』が強くしました。それは、『その名』を信じる信仰によるものです。…」と言っています。ペトロは、自分が癒したのだとは決して言いませんでした。足が不自由だった男の「イエスの名」への信仰によって癒やしがなされたのである、と言うのです。ペトロがいくら立派であったとしても、癒やされた人の信仰がなければ、癒しの業はなされないのです。ペトロの説教を聞いて、仲間になった男たちの数は五千人になりました。女たちも加えると五千人以上の人たちの群れがペトロたちの仲間になったのです。

 しかし、ペトロとヨハネが話をしている時、神殿守衛長とサドカイ派の人々が近づいてき、二人を捕らえて、翌日まで牢に入れました。翌日になると最高法院が開かれ、そこに、議員、長老、律法学者たち、大祭司一族が集まりました。ペトロとヨハネはこれらの人たちに囲まれ、真ん中に立たされました。「お前たちは何の権威によって、『だれの名』によってああいうことをしたのか。」と尋問されました。ペトロはその問に対して、聖霊に満たされて答えました。「あなたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあの『ナザレの人、イエス・キリストの名』によるものです。」とその答の中で言っています。ペトロは力強く言います。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが『救われるべき名」は、天下において『この名』のほか、人間には与えられていないのです。』イエスさま以外に私たちを救うことのできる方はいないのです。私たちが「救われるべき名」はただ一つ、「イエスの名」以外にはないのです。

「イエスの名」は、「救われるべき名」です。「救われるべき名」とは、強い表現です。「救われる名」でもいいと思いますが、「べき」と言う言葉が入ることによって、その意味が強くなると共に、「皆が救われるべき名」なのだ、という意味になり、救いの対象がすべての人になるのではないでしょうか。

 「イエスの名」は「救われるべき名」であり、「その名」はすべての人にひらかれているのです。そのことを心に留め、「イエスの名」によって、祈り、またある時には癒され、そしてまた、宣教の業をなしていく者でありたいと思います。真の救いに与った者として、「救われるべき名」である「イエスの名」を謙遜な心を持って、用いていく者でありたいと思います。

     2022年6月19日 聖霊降臨節第3主日 平島禎子牧師


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