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「 宣教 」 マルコによる福音書6章1~13節

 今日の聖書に記されている二つの話は、それぞれに「宣教」ということについて考えさせられる箇所です。イエスさまは故郷のナザレで宣教された時、人々はその言葉と業がすばらしいものであると感じながらも、イエスさまは自分たちの知っているイエスさまでしかない、という思いに遮られて、イエスさまを信じることができなかったのです。しかし、後にイエスさまの母マリアと兄弟たちはイエスさまを信じるようになりました。(使徒言行録1章14節) ナザレの人たちの中にもそのような人たちがいたかもしれません。宣教によって福音の種は思いもしないところで育っていくものであるのかもしれません。現在の日本において、家族に伝道するということは大変難しいことであると思いますが、いつ福音の種が芽吹くのかは誰にもわかりません。家族や近所の人たちが信仰を持つように祈りつつ宣教の業をなしていくことが大事であろうと思います。

 もう一つは、イエスさまが弟子たちを二人一組にして派遣された話です。二人というのは、昔の律法に、犯罪者を処刑するには、二人、ないし三人の証人が必要である(申命記17章6節、19章15節)と記されています。そのことも影響しているかもしれませんが、マタイによる福音書18章20節に「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」というイエスさまの言葉が記されています。二人で遣わされることは、そこにイエスさまも共にいてくださるということではないでしょうか。そして、弟子たちの旅支度として許されたものは、杖と下着一枚と履物だけでした。本当に何もない貧しい姿で宣教の旅に出よ、とイエスさまは言われるのです。そして、「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。」と言われます。弟子たちは何一つ持たない貧しい者でありますが、迎え入れられた家において、食事等が保証され、生活に困ることはなかったのです。その家を拠点にして、宣教活動をするように、とイエスさまは言われるのです。それまで知らなかった土地にとどまり続けることは大変なことです。しかし、招き入れてくれた家の人との信頼関係ができ、同じ信仰をもつ神の家族になること、そこから 「宣教」へと押し出されていくことが大切なのであろうと思います。そして、実際にイエスの弟子たちは宣教し、多くの悪霊を追い出し、病を癒す働きをなすことができたのです。

 宣教するというのは、今の時代、日本においてとても難しいことです。クリスチャンとして生きていくのがやっとであるかもしれません。しかし神の家族である教会に属する者として、そこから派遣され、外へ押し出されていくと、どのような形になるかはわからなくても宣教をなしていくということが大切なのではないかと思います。どのように小さくても「宣教する教会」となれるよう、祈りつつ歩む者でありたいと思います。

        2022年7月3日 聖霊降臨節第5主日 平島禎子牧師

 


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