• 記事検索

RSS

「 陰 徳 」 マタイによる福音書6章1~4節

 イエスさまは生前、約3年と言われる宣教活動の中で多くのことを教えられました。マタイはその中の主要なものを山上の説教の中にまとめました。今日の聖書はその真ん中の部分になります。ぱっと見ると分かりにくいですが、6章の1~18節がひとつのまとまりを形成しています。後から挿入された「主の祈り」の部分を切り離すと、「施し」「祈り」「断食」という当時のユダヤ教の三大善行についての教えになります。

 2節には「偽善者」という言葉が出て来ますが、これは「俳優」を意味する言葉でもあります。「俳優」は役を演じて、それを人に見せるのが仕事ですが、善行は、決してそうなってはならない、善行は人に見せるためにするものではないとイエスさまは言われています。実際にラッパを吹く行為があったかどうかははっきりしませんが、一説には、多額の特別の献金をした際には、その献金者をたたえて会堂で執事がラッパを吹いたと言われています。いずれにしても「施し」の前に会堂や街角で吹聴するということがあったのだと思います。

 イエスはさらに突き詰めて、人に見せる、知らせることを禁じるだけではなく、3節では、自分にも知らせるな、と言われているように思います。人に知らせて人からの誉れを受けることも大きな誘惑ですが、自分に知らせて自己満足する、もっと言えば「いい気になる」のも、さらに質の悪い誘惑かも知れません。善行は、それとは意識せずに、もっと言えば心からあふれる愛によって自然に、気が付いたらやっていた、というように無意識にできれば本当にすばらしいなあと思わされます。

 昨年1月に亡くなられた平島禎子牧師の父が、「陰徳」について言われたことがありました。まだ若かったわたしはうまく答えることができませんでした。今から思うと、徳のある行為をするには、それ相応の「自分」が必要だということ、特に隠れて良い行いをして徳を積むのは、自分が相当に成長してはじめて出来るものなのかも知れません。もちろん生まれつきできる例外の人はいますが。

 隠れてなされる善行、それによって得られる「報い」「徳」はその人の真の宝です。そして「宝」は、天にこそ積むものだと思います。(6:19~21)

 わたしたちの行いが偽善にならないように、イエスさまの教えをかみしめ、天に心を向けて、信仰の歩みを進めて行く者でありたいと思います。

 

2025年2月2日(日) 降誕節第6主日礼拝 笹井健匡牧師


コメント
name.. :記憶
e-mail..
url..

画像認証
画像認証(表示されている文字列を入力してください):