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「育つままに」 マタイによる福音書13章24~30節

 今年は降誕節がとても長いので、イエスさまの宣教の歩みをゆっくりと思うことができます。教団の教会歴では、マタイの福音書が取り上げられています。せっかくなのでマタイらしい、他の福音書にはないところを見てみたいと思います。

 選んだ聖書の個所は、毒麦のたとえです。マタイはマルコの「種まき」のたとえを取り入れながら、この毒麦のたとえを挿入しました。そこにはマタイの思いが込められているように思います。

マルコでは、神の偉大さが、その圧倒的な恵みが強調されています。4:28には「土はひとりでに実を結ばせる」という言葉があります。文字通り人間の思いも及ばぬ、想像を絶するところに神の豊かな働きがあるのです。マタイはこの前後を自らの福音書に採用しませんでした。

もちろん、マタイも神の圧倒的な大きさや、人間に対する寛容さは信じていました。5:45では悪人に対しても太陽と雨の恵みを与えられると記しています。しかし、マルコの教会がある意味まだ歴史が浅く、イエス・キリストの偉大な出来事の記憶が強烈で、それゆえ、何よりも神の、あり得ないほどの大きさ、そこからくるイエスさまの寛容さが強調されているのに対して、マタイではおそらく時が経ち、教会の中にもさまざまな事件が起こり、どうしようもないと思われるようなことも経験して、その葛藤や苦しさから来る切実な思いが福音書に反映されているように思います。

最近の研究では、もともとのイエスさまの言葉は24,26,28後半~30前半と言われています。読んで見ると分かりますが、神の寛容さが強調されています。マタイはその上に自らの教会における「毒麦」としか言えない、悪魔の業としか考えられないものを投影したのだと思います。

もちろん、気が付いた「悪」は、その芽が小さいうちに摘まなければいけません。しかし問題は、それが分からない、見分けがつきにくい時です。さらに難しいのは、麦の根が絡み合うように、その問題の根が複雑に入り組んでいる場合です。神さまは、時が来るまで「育つままに」しておくように言われました。時が来れば神がナタを振るわれるのです。

イエスさまを信じて生きる私たちは、難しい問題に対して何よりも祈りを熱くしなければなりません。そしてそこから聖霊に導かれて行動に押し出されて行きたいと思います。

2025年2月16日(日)降誕節第8主日礼拝 笹井健匡牧師


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