長く続いて来ました降誕節も、今日が最後の日曜日となりました。5日は灰の水曜日となります。イースター(4月20日)までレント、克己の時を過ごしますが、今年は特に「悔い改め」という言葉が心に浮かびました。
今日の聖書は、悔い改めない町、そこに住む人々に対してイエスさまが厳しく非難されているところです。どうしてイエスさまはこんな厳しい言葉を言われたのでしょうか。しかも「町」を断罪されているので、そこにいる人々をみんな十羽ひとからげで非難されているように感じてしまいます。旧約の時代に、神の厳しい罰を受けたティルス、シドン、ソドムよりも、現在宣教中の、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの方が重い罰を受けると言われているのです。
23節のカファルナウムに関する言葉に、イエスさまの思いが最もよく表れているように思います。当時、カファルナウムではギリシャ風の建築物が多く建てられていたそうです。当時の人々にとってその壮麗さは、まるで天に向かってそびえたつ塔のように見えたかも知れません。バベルの塔を思い起こします。そんな開発、開発で忙しい上流階級の人々、神など忘れ、この世の繁栄に心を奪われてしまっている人々の在り方をイエスさまは厳しく叱られたのだと思います。
次の聖書の個所、25節を見ると、そこに、神さまがイエスさまを遣わされた真意が記されています。神はその御旨を、幼子のような者たちに示されたのです。ここにある「知恵ある者」「賢い者」こそ、イエスさまが批判された町々の、主だった人々、本来民を指導し、神の喜ばれる社会を築いて行く責任のある人々なのだと思います。
富に仕えると、神が見えなくなります。富はあくまで神さまの御用に用いてこそ、本来の力を発揮し、有用なものとなるのです。
今も、イエスさまは、この世で力のない、無名の、私たちを選んで、神さまの御用に用いて下さっています。
イエスさまによって、神を示された者として、このレントの時を歩んで行きたいと思います。悔い改めることを大切にして。
「悔いる」ことも大事ですが、より大切なのは「改める」ことです。何か失敗したり、やらかしてしまったら、即反省し、神の方へ向き直る、そして歩み直していく歩みを、イースターの喜びの日を遠くに見ながら、共に励まし合い、祈り合いながら進めて行く者でありたいと思います。
2025年3月2日(日)降誕節第10主日礼拝 笹井健匡牧師