過ぎた日曜日、月曜日と故出石洋子姉の葬りの業が行われました。世の常とは言え、大変さびしい思いがします。今年のレント、これ以上悲しいことは起こらないようにと切に祈ります。
今日の聖書は、「ベルゼブル論争」と言われているところです。イエスさまの評判がものすごいことになり、それへの妬みと悪意を込めて、悪霊の力を使っているとマルコ福音書には記されています。マタイはそれを具体的ないやし物語の文脈で記します。話すこと、見ることができるようになった人を見て、イエスさまをほめたたえた群衆に対して、ファリサイ派の人々が、それは悪霊の力を用いていると水を浴びせたのです。
イエスさまは、悪霊たちの国や、略奪する強盗のたとえを用いて分かりやすく語られました。ここまではいいのですが、問題は最後の結論です。ここで言われているのは、一言で言うと、神やイエスへの批判はどんなものでも許されるが、聖霊に対する批判は許されないというものです。ルカはこの部分を省いています。マタイは、さらに最後の32節で冒涜に加えて「言い逆らう」を重ねています。聖霊に逆らうとは、どういうことでしょうか。
ここでは神さまもイエスさまも大きな愛のお方であるので許されるけれども、聖霊は神の働きなので、それに反対するというのは結局のところ、悪魔の側に組みすることになる、だから結果として神からどんどん離れていくので、許されようがなくなってしまうと言うことかも知れません。
今回わたしには少し違う角度から示されたことがありました。それは使徒言行録16章にある「マケドニア人の幻」のところにある、聖霊が伝道を禁じるというものです。聖霊の働きである伝道を聖霊が禁じる、そういうこともあるということです。
2月28日に召天された小暮光司牧師、3月8日に召天された出石洋子姉、そして3月11日に永眠された石川一雄さん、私たちにとっては大変関係の深い方々でしたが、それぞれに、いろいろと止められました。本来ならいいことと思えることであっても、聖霊が立ちはだかることがあります。やはりその時には、自分自身の思い、それがどんなに強いものであっても、時に、どうして、と思えるようなことであっても、立ち止まって、方向転換しなければなりません。
レント、克己の時、聖霊に従う歩みをこそ、なして行きたいと思います。
2025年3月16日(日)受難節第2(復活前第5)主日礼拝 笹井健匡牧師