「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい。」(24節)とイエスさまは言われます。「自分を捨てる」というのは、自分を失くしてしまう、自己消滅してしまうことではありません。人間的な思いを廃して神さまに従うということです。「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」というのは、自分の力ではどうしても変えられないような病気やコンプレックスを持ったままで、人間よりは神に従うのだ、という思いを持って生きること、人から笑われようが、憎まれようが、私は神に従う道を歩むと決意すること、それが自分の十字架を背負うということであろうと思います。イエスさまの後について行くのには、何の条件もいりません。もっと立派な人間にならなければ、もっと知識や知恵をもたなければ、もっと信仰をもたなければ、もっとこのようにしなければ、などという条件は一切いりません。そのままのあなたで、ぼろぼろのままで、私について来なさい、とイエスさまは言ってくださるのです。
私たちは、うまくいっていると思える時でも漠然とした不安を持つことがあるかもしれません。たとえ、一生懸命に仕事をしても、また、一生懸命に趣味に打ち込んでも、また、一生懸命に家族や友人を愛しても、それでも一抹の不安を感じるならば、それは、本当の救いに与っていないということであろうと思います。この世の人たちの言うことを聞き、世間体を気にするよりも、まず、神さまの御心を尋ね求める、そして、神の御心に従う、イエスさまに従うということではないかと思います。
イエスさまに従うとは、自分の十字架を背負って、イエスさまの後をついて行くことです。私たち一人一人には悩みや苦しみがありますが、神さまは、そのことを通して、私たちをどのように導こうとされるのかということに思い至ることが大事だと思います。時として、イエスさまの前を行こうとする私たちであるかもしれませんが、しかし、イエスさまは、その都度、その都度、「引き下がれ、私に従いなさい。」と言ってくださるのです。
このレントの時、「自分の十字架を背負ってイエスに従う」という決意をなし、神さまの思いを尋ね求めていく信仰を持って歩む者でありたいと思います。
2025年3月23日受難節第3、復活前第4主日 平島禎子牧師