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「 祈 り 」 マタイによる福音書6章5~15節

 今日の聖書のマタイによる福音書6章9節から13節までは、イエスさまが私たちに教えてくださった「主の祈り」が記されています。11節から13節までの後半は、人間の生活者としての祈りです。

 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」(11節) イエスさまの周りに集まったのは、貧しい人、疎外された人たちでした。金銭の余裕などない人たちでした。この祈りは、それらの人たちにとって切実なものでした。イエスさまはそれらの人たちにこの切実な祈りを教えられました。今を生きる私たちにはそのような切実さはないかもしれませんが、世界では飢餓で苦しんでいる人たちがいる、日本でも貧困のために食べることができない人たちがいます。そのことを覚えて、祈り、できることをしていかなければと思います。

 「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」(12節) 神さまと私の関係において、私が赦されていることと、他者と私の関係において、私が赦すということは結びついているのです。神との縦の関係と人間同士の横の関係とはつながっていなければならないです。私は十字架の縦を神との関係、横を人との関係として見ています。その十字架が成立するのは、十字架にかけられたイエスさまの存在があるからこそと思っています。

 「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者たちから救ってください。」(13節) キリスト者にとっての誘惑とは「神から離れること」です。悪魔は、私たちが神から離れるように色々な手を使ってきます。5日の灰の水曜日からレントに入りました。長かった降誕節も終わり、受難節となりました。この期間克己の生活をしようと思われていることだと思います。好きな飲み物や食べ物をがまんしようと決めた人もいるかもしれません。また、何かの課題を自分に課している人もいるかもしれません。それらのことを邪魔しようとするのが悪魔の誘惑です。またそれだけでなく、病気になることも悪魔の誘惑であるかもしれません。神さまを信じているのになぜこんなことになるのであろうか、という思いを持つこともあるかもしれません。そのような思いに悪魔がつけこんでくることもあります。病気だけでなく、人生の途上で起きる困難や悲しみも悪魔のつけこむ事柄であろうと思います。人間は弱い存在です。ですから、誘惑を受けることがないように、悪から救ってくださいという祈りを日々なしていくべきであろうと思います。

 「主の祈り」は「われら」の祈りです。一人で祈る時もそこにはいないけれども同信の友がいるのだということを覚えることが大切であろうと思います。また、祈る言葉が見つからない時でも「主の祈り」は祈ることができます。

レントの時、祈りを熱くし、われらの祈りである「主の祈り」を大切にし、克己の日々を歩んでいく者でありたいと思います。


2025年3月9日受難節第1、復活前第6主日 平島禎子牧師


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