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「 僕 仕 」 マタイによる福音書20章20~28節

 新しい年度、2025年度が始まりました。お一人おひとり、あらたな気持ちで今日を迎えておられることと思います。また教会としても、週報に記載されている通り、新しい信仰目標、年間聖句を掲げて、あらたな思いで、新しい歩みをスタートしたいと思います。

 今日の聖書は、イエスが三度目の受難予告をされた直後のところです。先週話しましたように、今年は11年前と同じ日めくりになっています。さらに11年前児島教会での最初の説教は、今日の聖書のマルコの平行個所でした。マルコでは「ヤコブとヨハネが進み出て」となっていますが、マタイは母が二人の息子を引き連れて来たというふうに記されています。ちなみにルカはこの部分をすべてカットしています。後に誕生した教会で大いなる存在だったヤコブとヨハネの名誉を守りたかったのだと思われます。

母の言葉では、イエスが王座に就くことになっています。(マルコでは「栄光」)右大臣、左大臣のようなことを夢見ていたのかも知れません。(母の欲目、妄想)

イエスが受難のことを「杯」と言われても、本当の意味は理解せず、「できる」と答えます。しかもこの願望はヤコブとヨハネに限らず、他の弟子たちもひそかに心に秘めていた願望だったことがあぶり出されます。

 そんな弟子たちに対してイエスが最終的な結論として教えられたのが、「仕えること」「僕になること」でした。教会の掲示板に「今井敬隆僕仕」と書いておられた今井先生のことを思い起します。

 イザヤ書によくあらわれる主の僕(最後は53章)、また神に仕える多くの信仰者たちの姿を旧約聖書は記して来ました。「仕える」「僕」というのは神と人間の関係で捉えられてきました。しかし、イエスはそれを人と人との関係に広げられたのです。イエスはその生き様をもって、神の子が人に仕えることによって、まことの愛を示されたのです。そしてこの教えの最終到着地点は、互いに仕え合う、僕になり合うことによって、本当の意味で、互いに愛し合うことが実現するという地点です。そしてそこから地上に神の国が到来するということを、イエスは教えられたのだと思います。

 受難予告が3度もなされても、弟子たちは驚くほど無理解です。しかしこの、イエスと真逆の姿は、この受難節、レントの時を歩んでいる私たちの姿と、実はそんなに違わないのかも知れません。何度も繰り返しイエスのこの「仕えなさい」「僕になりなさい」の言葉を聞いて、イエスの後に従って行きたいと思います。

2025年4月6日(日)受難節第5(復活前第2)主日礼拝 笹井健匡牧師


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