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「復活の主と共に」 マタイによる福音書28章16~20節

 イースターおめでとうございます!今年は大変遅いイースターで、すっかり暑くなってしまいました。日本の暦では穀雨にあたります。受難節、レントの歩みはいかがだったでしょうか。

 マタイは、その福音書を、マルコに従って、マグダラのマリアたちへの復活の主の顕現を記し、そしてその後ちょっとしたエピソードをはさんで、今日の世界宣教命令で綴じます。その最後の場面の地はガリラヤです。(26:32)

 マタイは、その中で「山」(16節)を強調します。おそらく山上の説教(5~7章)をされた山だと思われます。復活の主は、弟子たちを、生前大勢の群衆とともに過ごし、たくさんの教えを語られたあの山に導かれたのです。

 弟子たちは、どんな思いで山を登って行ったのでしょうか。17節にはイエスに会ったときに疑う者もいたことが記されています。この「者」は複数形ですので、決してトマスを連想させるものではありません。そうではなく、「復活」という前代未聞の事柄に対する疑心暗鬼が記されているのだと思います。彼らに入って来ていた復活に関する情報は、マグダラのマリアたちの情報だけでした。マタイではルカやヨハネにある、弟子たちへの復活顕現はありません。

 イエスを見捨て、逃げ去ってしまった弟子たち、つまり師を裏切ってしまった弟子たち、そしてすべては終わってしまったと思っていた弟子たちにとって、主の復活は、夢幻よりも実現性のない、負け惜しみのような、おろかなたわごとだったのかも知れません。

 イエスが近寄り、おそらくは大きな、はっきりとした声で、宣教命令、そして最後に「世の終わりまで、いつも共にいる」ことを言われたとき、はじめて本当の意味で、主の復活を信じることができたのではないでしょうか。

 マタイは、イエスの誕生の時、インマヌエル「神は我々と共におられる」(1:23)と記しました。そして最後の締めに、復活の主がわたしたちと共におられることを記したのです。これからの新しい時代、新約の時代は、復活の主イエスが、わたしたちと、いつも一緒にいてくださるのです。

 イースターから始まる新しい歩みを、復活の主と共に、元気に歩み出して行く者でありたいと思います。

 

2025年4月20日(日) イースター礼拝 笹井健匡牧師


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