今日の聖書には、イエスが裏切られようとする場面が記されています。イエスを裏切ったユダは、イエスが選ばれた十二弟子の一人でした。ユダもまた、他の弟子たちと同様に、人生のある時期にイエスと出会い、イエスを信じ、全てを捨ててイエスに従いました。しかし、イエスが受難予告をされるようになった頃から、ユダを含む弟子たちには動揺が起きたのではないかと思います。そして、ユダはイエスを裏切る決意をなし、祭司長たちのところへ行き、イエスを引き渡すことを申し出たのです。(14~16節)
ユダは人間的な思いを持ってイエスを見つめ、イエスを信頼し、自分の幻想をイエスに重ねた結果、それが異なるものであると知ると、イエスに失望し、イエスを憎み、イエスを裏切りました。しかしその後、後悔し、挙句の果てには自分の命を絶つということになってしまいました。
ユダが最も親しい間柄を示す行為である接吻をもってイエスを裏切ろうとして近寄った時、イエスは、「友よ、あなたのしようとしていることをするがよい。」(50節)と言われました。イエスは、「裏切者よ」ではなく、「友よ」と呼びかけられています。イエスは自分を裏切ったユダの滅びの道をご存じで、ユダを憐れまれたのではないかと思います。
私たちは、ユダ一人がイエスを裏切った悪者であると決めつけるのではなく、私たちの中にもユダ的なものがあるのではないかと思わなければならないのではないかと思います。私は、昨年度は、病気で教会を休むことが多く、思い描いている信仰生活ができない、理想とする人生が開けないと思うことが多々あり、イエスを遠くに感じていました。しかし、そのような私にさえ、イエスは、「友よ」と呼びかけてくださいます。そして、「それ以上、自分を苦しめる道に行くな。人間の思いを捨てて神に心を向けよ。神はあなたに何が必要であるかをご存じなのであるから、与えられているものに感謝しなさい。人間的な尺度で物事を計り、自分の心を濁らせ、腐らせてはいけない。」と語りかけてくださるのではないかと思います。
使徒信条の中で、「十字架につけられ、死にて葬られ、黄泉に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり」とありますが、イエスが黄泉に下られたのは、先に死んで絶望の中に横たわっていたユダを救うためだったのではないかと、勝手に思っています。それほどイエスの愛は深いのであると思うのです。イエスは決して誰をも見捨てられない、たとえ自分を裏切った者であろうとも、その人を憎まず、愛し、探し、救いへと導かれる方です。このイエスに信頼し、人間の思いを捨て、神に従う歩みを2025年度こそはなしていくことができるよう、祈る者でありたいと思います。
2025年4月13日 棕梠の主日 受難節第6、復活前第1主日 平島禎子牧師