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 イエスさまは公生涯の始めに洗礼を受けられた後、悪魔の誘惑に遭われました。イエスさまは霊に導かれて荒野に行き、四十日四十夜、断食をされました。そこに登場したのが誘惑する者、悪魔でした。

 第一の誘惑は、「石をパンに変える」というものでした。人間はパンなしでは生きていくことはできません。イエスさまはそのことをご承知の上で「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(申命記8章3節)と答えられました。神さまは天から人に試練を与え、人を鍛えられる方でありますが、最後は、天からマナを降らせたように(出エジプト16章)、私たちにマナを、パンを与えてくださるのです。神さまに信頼するならば、必要なもの、食べ物は必ず与えられるのです。

 第二の誘惑は、神殿の頂上から身を投げて、神さまが救われるのかどうかという試みです。悪魔は聖書の言葉、詩編91篇11、12節を引用して、試みをなしたのです。悪魔は、自分が悪い者であると言って近寄って来るのではなく、さも良き者、聖なる者のように装ってやってくるのです。そのような悪魔に対して、イエスさまは、「神を試みてはいけない。」(申命記6章16節)と言われたのです。カルトや異端といったものも、聖書を用いて、悪の方へ洗脳しようとします。そのような時、「神を試みてはいけない。」という言葉を心に持ち、語っていくことが大切であろうと思います。

 第三の誘惑は、この世の繁栄ぶりをイエスさまに見せ、この世の権力をすべてあなたにあげよう、と悪魔は言ったのです。ただし、悪魔にひれ伏し、拝むならば、いう条件つきのものでした。悪魔礼拝をするならば、この世のすべてのものが自分のものとなるという誘惑に対して、イエスさまは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』(申命記6章13節)と書いてある。」と答えられました。イエスさまは、「退け、サタン。」と激しく、毅然として言われました。悪魔の間には融和的な交渉はあり得ません。悪魔の誘惑は毅然と立ち向かわなければならないのです。

 イエスさまは、聖書に書かれている言葉をもって、三つの誘惑を退けられました。神さまを信じる者として、神の言葉に親しむことの大切さを思わされます。また、三つの誘惑は、食欲に対する誘惑、自分が何者かであることを証明しようとする誘惑、権力欲に対する誘惑といったことが記されているのではないかと思います。私たちには、欲があります。欲がない人などいないと思います。しかし、欲を持つとそこに誘惑がつけこんできます。自分の持っている欲がどのようなものであるのかを知り、それに伴う誘惑を神さまにあって退けなければなりません。誘惑の多いこの世の中ですが、誘惑に勝たれたイエスさまを思い、イエスまの語られた御言葉を心に持ち、誘惑に負けずに歩んで行く者でありたいと思います。

     2025年1月26日降誕節第5主日 平島禎子牧師


 今年はイースターが遅い(4月20日)関係で、降誕節が長いので、ゆっくりとイエスさまの誕生からの足跡をたどることができます。

今日の聖書、マタイ福音書は、マルコ、ルカに比べイエスさまの伝道開始を少し詳しく記述しています。またマタイは、イエスさまの登場を旧約の預言の成就として記します。

 ガリラヤは、歴史的にさまざまな困難を経験してきました。外国人による侵略を受け、混血がすすみ、ユダヤ教も試練を経験しました。イエスさまの時代は、その言わば異教の影響を受けて来たガリラヤが、ユダヤ教の復興をすすめている過程でした。しかし、その歴史的状況から、ガリラヤは、イスラエルの中でも差別されている地方でした。

 そのガリラヤに「光が射し込んだ。」とマタイは告げました。イエスさまの時代にはメシアが待望されていて、そのメシアを「光」と表現することもあったようです。マタイは、メシア到来をイザヤの預言の成就として、このイエスさまの登場の時に置いたのです。

 ここからイエスさまの時が始まりました。イエスさまの時とはどんな時でしょうか。光の時、喜びの時、婚宴の時、…。もはや、闇の支配する時は終わり、光あふれるお祝いの時がやって来たのです。ヨハネの弟子までは、断食をしていましたが、イエスさまの弟子たちはしませんでした。それどころか、よく宴会が催されていたようです。みんな飲んで食べて、愉快に語り合い、笑いあったに違いありません。今の教会で言うなら、愛餐会、祝会の愛餐の時です。

 わたしたちの教会は喜びにあふれているでしょうか。イエス・キリストの福音を信じるということは、その福音の喜び、救われた喜びに生きるということです。

もちろん現実には大変なこと、つらいこと、厳しいことがいっぱいあります。しかしその時に、それとどう向き合い、受け入れ、生きて行くか、が大切です。イエスの時は、その登場の時から始まり、十字架と復活を経て、教会の誕生とともに、現代までずーっと続いているのです。復活の主は今もわたしたちと共におられて、共に生き、共に働いておられます。

 降誕節のこの時、福音書に記されたイエスさまの姿をしっかりと見つめて、そのイエスの時に生きるわたしたちでありたいと思います。

 

2025年1月19日(日) 降誕節第4主日礼拝 笹井健匡牧師


 イエスさまは、ヨハネから洗礼を受けるためにガリラヤのナザレからヨルダン川へやって来られました。イエスさまはヨハネから洗礼を受けるために列をなしていた群衆の中の一人としてやって来られたのです。ヨハネはイエスさまを見てすぐに「神の人」であることを悟ったのであろうと思います。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところに来られたのですか。」(14節)とヨハネはイエスに言いました。しかし、イエスは、「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(15節)と言われました。イエスさまが大勢の人の中の一人として洗礼を受けられるということは、人間との深い連帯であり、深い憐れみがあったからではないかと思います。ヨハネはイエスさまに洗礼を授けました。イエスさまが水から上がると、天がイエスさまに向かって開かれ、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのをイエスさまは見られました。そして、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」という声が天から聞えてきたのでした。(16、17節)イエスさまがヨハネから洗礼を受けたということは、神の御心に適うものであったのです。

 私たちは、悔い改めと神さまからの赦しの印としての洗礼を受けます。その時、新しい人へと生まれ変わり、私たちにも聖霊が降ります。この聖霊の働きに身を委ねて生きるというのが、キリスト者であろうと思います。また、イエスさまが人間と連帯して洗礼を受けられたように、私たちも洗礼を個人事とは考えずに、教会の中に入れられた者として、教会の業に参与していく、また、この社会にあって大変な思いをしている人たちと連帯していくことが大切であろうと思います。

 私たちは、神さまが定められた時に洗礼を受けます。それが幼児洗礼という形で、親の信仰によって、人生の早い時期でなされることもあります。また逆に、人生の最後の時、亡くなられる前に、病床で洗礼を受けられる方もあります。洗礼というのは、人間の側からの求めだけではなく、神からの求めに応じてなされるものであるのではないかと思います。あなたが必要なのだ、という神の声を今一度聞く者でありたいと思います。

 すべてのことには時があります。その「時」は、神さまが定められた時です。洗礼の時も定められた時であるということを信じ、イエスさまがへりくだりヨハネから洗礼を受け、そのことを神さまが良しとされたように、私たちもへりくだった心をもって、神さまの御心を行っていくことができるように祈る者でありたいと思います。

 

2025年1月12日 降誕節第3主日 平島禎子牧師


 新しい年になって、最初の主日を迎えました。明日6日(月)が公現日ですので、まだクリスマス週間の中にあるということになります。今日の聖書に記されているクリスマスの光から、新しい年へのメッセージをいただきたいと思います。

 博士たちは、イエスさまを拝した後、ヘロデのところへは行かずに、別の道を通って帰って行きました。もともと権力者のところを訪ねた博士たちでしたが、不思議な体験を通して、それまで経験したことのない、新しいものに出会ったのだと思います。それはいかにも貧しい身なりの赤ちゃんイエスさまでした。博士たちは、この世の「今まで」を越えた、何か聖なるものを感じ、霊的な喜びに満たされて、やがて来る新しい世界の予感にワクワクしながら生きる者になったのかも知れません。

 イエスさまの登場を経て、後に誕生した教会につながるクリスチャンたちは、どのような新しい世界を夢見たでしょうか。ひとつの究極の姿が黙示録21章に記された「神が人と共に住む」、つまりインマヌエルが地上に実現したものです。

 それでは、この素晴らしい世界が実現するために、私たち人間はどのように生きて行けばいいのでしょうか。

 イエスさまは、たったひとつだけ戒めを与えられました。それはあの洗足を通して、互いに足を洗い合うように、互いに愛し合いなさい、というものでした。

 2000年前、人々はあのダビデ、ソロモンのような強大な権力を持った王を、イエスさまに求めました。しかしイエスさまはそれを拒否され、十字架への道を歩まれ、真の愛を示されました。そして「互いに愛し合う」ことこそが、争いのない、平和な世界を実現して行くことを、身をもって示されました。

 新しい世界、それは愛に満ちた、笑顔あふれる世界です。そこで唯一ある競争は、どれだけ人を愛せたか、つまりどれだけ多くの人を笑顔にできたか、だと思います。そんな、初夢のような、新しい世界が実現することを願って、2025年の歩みを進めて行きたいと思います。

 

2025年1月5日(日) 降誕節第2主日礼拝 笹井健匡牧師


 新年、2025年明けましておめでとうございます。本当にいろいろなことが内外にあった2024年でしたが、新しい年を迎えて心機一転、共に主にあってまた新しい歩みを始めて行きたいと思います。

 今日の、教団の聖書日課は、最初に見た時、正月らしくないなあと思ったのですが、よくよく考えて見ると、私たちの信仰の「初心」をよく表しているなあと思いました。

 神の力は、人の弱さの中にこそ働き、そこでこそ、より輝くのだと思います。第2回目の宣教旅行で訪れたギリシャのアテネにおいて、超大変な思いをしたパウロは、どん底の状態でコリントにたどり着きます。しかし、そこでパウロは彼の伝道活動の中で最も大きな成果を得ることができたのです。

 伝道というと、ついつい私たちは、雄弁で興味深い、ユーモアにも満ちた素晴らしい「話」を求めてしまいますが、しかし実際は、そのような輝かしいものではなく、弱く、みじめであるけれども、そこに最も大切な「核」があれば、神さまはそれを用いて、思いもよらぬ豊かな恵みを与えてくださるのです。

 新しい年、2025年も、この神さまの力を信じて、共に信仰の歩みを進めて行きたいと思います。どんなに不器用だって、かっこ悪くたって、ただ神を信じて歩めば、そこに信仰の実が成り、愛の花が咲き、人々の笑顔が満ち溢れるようになります。さあ、一緒に歩き出しましょう。

 

2025年1月1日(水) 新年礼拝 笹井健匡牧師