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 「ポリアンナ物語」という子ども向けの物語があります。ポリアンナは牧師である父から「よかったさがし」という遊びを習い、どんなことにも「よかった」を探す遊びを身につけます。この「よかった」を「喜び」と言い換えてもいいのではないかと思います。「喜び」を日々の生活の中で探し、見出し、心躍るような気持ちになれたらいいなーと思います。

 16節の「喜んでいなさい」という言葉はギリシア語で「カイレテ」と言います。マタイによる福音書28章に記されているイエスさまの復活物語にも出て来る言葉です。女性たちがイエスさまの墓に行き、墓が空であることを見、天使の言葉を聞いて、弟子たちに伝えるために走って行くと、復活のイエスさまが現れ、「おはよう」と言われたことが記されています。この言葉のギリシア語原語は「カイレテ」です。イエスさまは女性たちに、「喜べ!」と言われたのです。喜ぶとは心躍るような心情です。しかし、そうではない状況の時は、心が塞ぎ、喜べなくなってしまいます。そんな時には、ポリアンナの「よかったさがし」の遊びを思い出して、喜べることを見つけていくことが大事かなとも思わされます。

 17節には「絶えず祈りなさい」と記されています。「絶えず」と言われています。時が良くても、悪くても祈りなさい、と言われているのです。絶えず祈るということは、事あるごとに、心で祈ることです。平穏な時も、病気の時も、緊急のことが起きた時も、嬉しい時も、祈るということをなしていかなければなりません。祈りが生き生きしたものとして、私たちの心に根付き、祈りの花を咲かせ続けなければならないと思います。絶えず祈るということは、神さまと絶えず結びついていることを確信することです。私たちの力の源は、神さまにあるのです。

 18節には「どんなことにも感謝しなさい」と記されています。順境の時に感謝することはたやすいことです。ここでは、順境の時には感謝しなさい、と言われているのではないのです。「どんなことにも」感謝しなさい、と言われているのです。逆境の時に起きるどんなことにも感謝しなさい、と言われているのだと思います。感謝も「よかったさがし」と同じで、どんなことにもよかったこと、感謝することを探すことが大切であろうと思います。

 4月21日に召天されましたローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇は、今日の聖書の箇所を取り上げて次のように言われたそうです。「幸せになるための三つの法則は、つねに喜ぶ、絶えず祈ること、いつも感謝することです。…わたしたちは祈ることにより、真の喜びの源である神との、揺るぎないかかわりが持てるようになります。キリスト者の喜びは、何かを支払って得られるものではありません。お金で買えるものではありません。…。」

 また児島教会は「喜びをもって、祈りながら、感謝して生きる。」を2025年度の信仰目標として掲げます。いつも、絶えず、どんなことにも、喜び、祈り、感謝をなしていく、そのような私たち一人一人であり、教会であるように祈る者でありたいと思います。

2025年4月27日 復活節第2主日 平島禎子牧師(文責)


 イースターおめでとうございます!今年は大変遅いイースターで、すっかり暑くなってしまいました。日本の暦では穀雨にあたります。受難節、レントの歩みはいかがだったでしょうか。

 マタイは、その福音書を、マルコに従って、マグダラのマリアたちへの復活の主の顕現を記し、そしてその後ちょっとしたエピソードをはさんで、今日の世界宣教命令で綴じます。その最後の場面の地はガリラヤです。(26:32)

 マタイは、その中で「山」(16節)を強調します。おそらく山上の説教(5~7章)をされた山だと思われます。復活の主は、弟子たちを、生前大勢の群衆とともに過ごし、たくさんの教えを語られたあの山に導かれたのです。

 弟子たちは、どんな思いで山を登って行ったのでしょうか。17節にはイエスに会ったときに疑う者もいたことが記されています。この「者」は複数形ですので、決してトマスを連想させるものではありません。そうではなく、「復活」という前代未聞の事柄に対する疑心暗鬼が記されているのだと思います。彼らに入って来ていた復活に関する情報は、マグダラのマリアたちの情報だけでした。マタイではルカやヨハネにある、弟子たちへの復活顕現はありません。

 イエスを見捨て、逃げ去ってしまった弟子たち、つまり師を裏切ってしまった弟子たち、そしてすべては終わってしまったと思っていた弟子たちにとって、主の復活は、夢幻よりも実現性のない、負け惜しみのような、おろかなたわごとだったのかも知れません。

 イエスが近寄り、おそらくは大きな、はっきりとした声で、宣教命令、そして最後に「世の終わりまで、いつも共にいる」ことを言われたとき、はじめて本当の意味で、主の復活を信じることができたのではないでしょうか。

 マタイは、イエスの誕生の時、インマヌエル「神は我々と共におられる」(1:23)と記しました。そして最後の締めに、復活の主がわたしたちと共におられることを記したのです。これからの新しい時代、新約の時代は、復活の主イエスが、わたしたちと、いつも一緒にいてくださるのです。

 イースターから始まる新しい歩みを、復活の主と共に、元気に歩み出して行く者でありたいと思います。

 

2025年4月20日(日) イースター礼拝 笹井健匡牧師


 今日の聖書には、イエスが裏切られようとする場面が記されています。イエスを裏切ったユダは、イエスが選ばれた十二弟子の一人でした。ユダもまた、他の弟子たちと同様に、人生のある時期にイエスと出会い、イエスを信じ、全てを捨ててイエスに従いました。しかし、イエスが受難予告をされるようになった頃から、ユダを含む弟子たちには動揺が起きたのではないかと思います。そして、ユダはイエスを裏切る決意をなし、祭司長たちのところへ行き、イエスを引き渡すことを申し出たのです。(14~16節) 

 ユダは人間的な思いを持ってイエスを見つめ、イエスを信頼し、自分の幻想をイエスに重ねた結果、それが異なるものであると知ると、イエスに失望し、イエスを憎み、イエスを裏切りました。しかしその後、後悔し、挙句の果てには自分の命を絶つということになってしまいました。

 ユダが最も親しい間柄を示す行為である接吻をもってイエスを裏切ろうとして近寄った時、イエスは、「友よ、あなたのしようとしていることをするがよい。」(50節)と言われました。イエスは、「裏切者よ」ではなく、「友よ」と呼びかけられています。イエスは自分を裏切ったユダの滅びの道をご存じで、ユダを憐れまれたのではないかと思います。

 私たちは、ユダ一人がイエスを裏切った悪者であると決めつけるのではなく、私たちの中にもユダ的なものがあるのではないかと思わなければならないのではないかと思います。私は、昨年度は、病気で教会を休むことが多く、思い描いている信仰生活ができない、理想とする人生が開けないと思うことが多々あり、イエスを遠くに感じていました。しかし、そのような私にさえ、イエスは、「友よ」と呼びかけてくださいます。そして、「それ以上、自分を苦しめる道に行くな。人間の思いを捨てて神に心を向けよ。神はあなたに何が必要であるかをご存じなのであるから、与えられているものに感謝しなさい。人間的な尺度で物事を計り、自分の心を濁らせ、腐らせてはいけない。」と語りかけてくださるのではないかと思います。

 使徒信条の中で、「十字架につけられ、死にて葬られ、黄泉に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり」とありますが、イエスが黄泉に下られたのは、先に死んで絶望の中に横たわっていたユダを救うためだったのではないかと、勝手に思っています。それほどイエスの愛は深いのであると思うのです。イエスは決して誰をも見捨てられない、たとえ自分を裏切った者であろうとも、その人を憎まず、愛し、探し、救いへと導かれる方です。このイエスに信頼し、人間の思いを捨て、神に従う歩みを2025年度こそはなしていくことができるよう、祈る者でありたいと思います。

 

2025年4月13日 棕梠の主日 受難節第6、復活前第1主日 平島禎子牧師


 新しい年度、2025年度が始まりました。お一人おひとり、あらたな気持ちで今日を迎えておられることと思います。また教会としても、週報に記載されている通り、新しい信仰目標、年間聖句を掲げて、あらたな思いで、新しい歩みをスタートしたいと思います。

 今日の聖書は、イエスが三度目の受難予告をされた直後のところです。先週話しましたように、今年は11年前と同じ日めくりになっています。さらに11年前児島教会での最初の説教は、今日の聖書のマルコの平行個所でした。マルコでは「ヤコブとヨハネが進み出て」となっていますが、マタイは母が二人の息子を引き連れて来たというふうに記されています。ちなみにルカはこの部分をすべてカットしています。後に誕生した教会で大いなる存在だったヤコブとヨハネの名誉を守りたかったのだと思われます。

母の言葉では、イエスが王座に就くことになっています。(マルコでは「栄光」)右大臣、左大臣のようなことを夢見ていたのかも知れません。(母の欲目、妄想)

イエスが受難のことを「杯」と言われても、本当の意味は理解せず、「できる」と答えます。しかもこの願望はヤコブとヨハネに限らず、他の弟子たちもひそかに心に秘めていた願望だったことがあぶり出されます。

 そんな弟子たちに対してイエスが最終的な結論として教えられたのが、「仕えること」「僕になること」でした。教会の掲示板に「今井敬隆僕仕」と書いておられた今井先生のことを思い起します。

 イザヤ書によくあらわれる主の僕(最後は53章)、また神に仕える多くの信仰者たちの姿を旧約聖書は記して来ました。「仕える」「僕」というのは神と人間の関係で捉えられてきました。しかし、イエスはそれを人と人との関係に広げられたのです。イエスはその生き様をもって、神の子が人に仕えることによって、まことの愛を示されたのです。そしてこの教えの最終到着地点は、互いに仕え合う、僕になり合うことによって、本当の意味で、互いに愛し合うことが実現するという地点です。そしてそこから地上に神の国が到来するということを、イエスは教えられたのだと思います。

 受難予告が3度もなされても、弟子たちは驚くほど無理解です。しかしこの、イエスと真逆の姿は、この受難節、レントの時を歩んでいる私たちの姿と、実はそんなに違わないのかも知れません。何度も繰り返しイエスのこの「仕えなさい」「僕になりなさい」の言葉を聞いて、イエスの後に従って行きたいと思います。

2025年4月6日(日)受難節第5(復活前第2)主日礼拝 笹井健匡牧師