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 1月8日(月・休)午後9時52分、平島禎子師の父が亡くなりました。翌日から12日(金)まで、葬儀のため福岡へ帰省しました。火葬を終えた後、降り続いていた雨が一時的に止み、雲間から太陽の日差しが降り注いだのを見て、私は個人的に大変慰められました。(児島教会礼拝堂に立つ姿を思い出します。)

 今日の聖書は、ヨハネ福音書が記す、最初の弟子たちです。他の3福音書では、4人の漁師が最初の弟子です。(5人目に徴税人を弟子にしておられます。)

ヨハネでは、アンデレと名もなき弟子、ペトロ、そしてフィリポとナタナエルの5人になります。

 アンデレともう一人の名もなき弟子は、もともと洗礼者ヨハネの弟子でした。二人は、ヨハネの紹介というか、お墨付きというか、つまりはヨハネを通して、イエスと出会ったと言えると思います。

ペトロは、直接的には、兄弟アンデレを通してイエスと出会いました。しかしおそらくは、洗礼者ヨハネのところに通うアンデレに、以前から刺激を受けながらも、何かしかの違和感というか、「違う」という感じをペトロは洗礼者ヨハネに抱いていたのかも知れません。イエスがジャストミートだったのです。

 フィリポはアンデレとペトロと同郷でした。もしかしたら二人とは、旧知の仲であり、彼らと同じようにメシアを待ち望んでいたのかも知れません。

 ナタナエルはおそらくフィリポと親しい友人であったと思われます。もっと言えば二人は一緒に聖書を読み、祈る仲だったのかも知れません。さらに言えばナタナエルは、カナ出身であり(21:2)、ヨセフのことを知っていたかも知れません。フィリポの強いリードで、ナタナエルはイエスと出会えました。

 私の場合は、教会においてキリストと出会い、洗礼を受けてから数年後にやっとイエスと出会うことができました。もちろん復活の主イエスです。もしかしたら多くのクリスチャンがキリストに出会い、キリストを信じて生きていくようになって、人生の転機に、危機にある時、強烈な、復活の主イエスとの出会いを体験するのかも知れません。そしてそこから、新しい人生を生きるのです。

 イエスさまと共に生き、宣教をなし、一緒に食事を、生活を共にした弟子たちのようにはいきませんが、私たちも聖書を通して、また礼拝、祈り、奉仕等を通して、復活の主イエスに出会い、心新たにされて、イエスさまと共に新しい人生を歩んで行きたいと思います。

 

   2024年1月14日 降誕節第3主日礼拝 笹井健匡牧師


 新しい年、2024年を迎えました。1日には能登半島で大きな地震があり、2日には羽田空港で大きな事故があり、心が痛い年明けとなりました。祈。

 疫病、戦争、地震(自然災害)は、古代からいつも人類を苦しめて来ました。2020年から新型コロナが、2022年からは戦争が。2024年からは地震をはじめ、自然災害に気をつけたほうがいいのかも知れません。

 イエスさまは、約2000年前、同じような、いやさらに暗い世に、希望の光として誕生されました。ヨハネは、創世記を念頭に置きながら、ギリシャ哲学の「ロゴス」の命、つまり生きたものとして、そしてその生命力によって、この世の闇を照らす光として、イエスさまを描きます。

 イエスさまご自身も、繰り返し(8:12、9:5、12:46)自らのことを「世の光」と言われています。教会もそのことを大切なメッセージとして伝承し、あの「光の子」(エフェソ5:8)という自己認識が生まれました。私たちは、光であるイエスさまを信じる、光の子です。闇が深まれば深まるほど、光はその輝きを増し、その役割は大きくなるのです。

 筑豊の宮田教会に居た時、一度だけ坑道に入ったことがあります。黒川抗という試験抗ですが、教会学校の子どもたちと、保護者と一緒に入りました。終わったあと、いつもは元気な子どもたちが、ぐったり疲れ、暗い顔をしていたことを今でもよく覚えています。

 闇の中を生きるのはとても大変です。想像以上に疲れます。そんな厳しい状況にあった人々の、救いの希望となったのがイエスさまでした。

手さぐりの時代、また多くの闇が世を覆っている時代、なかなか前に進む勇気を持つことが難しい面があります。しかし私たちイエスさまを信じる者は、足元を主の光で照らしていただいています。遠く、先の方を見通すことはできなくても、主の光のもと、まず一歩、踏み出すことができます。そこから、次の一歩、そしてさらに、一歩と、少しずつ前進して行くことができるのです。

 厳しい状況下にある人々のことを覚え、祈りを熱くしましょう。そして必ず道は備えられ、乗り越えて行くことが出来ることを信じて、顔を上げましょう。

新しい、はじめの一歩が、次の一歩につながって行くことを信じ、イエスさまの光をしっかりと見つめて、生きて行く一年にしたいと思います。

 

     2024年1月7日 降誕節第2主日礼拝 笹井健匡牧師


 激動の2023年も大晦日を迎えました。世間では、25日が終わると、急ピッチで衣替えがなされ、主役の座は、一気に「クリスマス」から「お正月」になります。救い主イエス・キリストをお迎えした私たちは、流されずに、ゆっくりと、じっくりと、1月6日公現日までのクリスマス週間(2週間)を過ごしたいと思います。

今日の聖書は、いわゆる3人の博士の場面です。昨年も、そして10年前の、いわゆる「お見合い説教」のときも、この箇所を取り上げました。イメージ豊かな、そしてそこから多くのメッセージを聞くことができるところです。

 今年は、暗闇と光というイメージが与えられました。ヘロデに代表されるこの世の闇と、希望の光である幼子イエスです。創世記のはじめで、「光あれ!」と言われた、神が「よし」とされた光が、ヨハネ福音書のはじめに「光は暗闇の中で輝いている。」と記されたように、今日の聖書でも闇の中にあったイスラエルに、イエスの光が輝いています。

 博士たちは、新しく誕生したユダヤ人の王に会うために、当然のごとくヘロデのところに来たのでした。しかしヘロデからすれば、寝耳に水の情報でした。自分には全く心当たりがありません。いわゆる王ではなく、メシアのことだと思い当たり、悪だくみをします。後で、16節以下の悲劇が起こります。光をなきものにしようとするこの世の権力者の悪あがきを越えて、神の業、神からの新しい光は輝き続けるのです。

博士たちは、この世の王を超える真の救い主メシアにあいまみえたことによって、その神的体験によって、もはややってきたときとは別人になっていました。夢のお告げを受け入れて、もはやヘロデというこの世の王のところには寄らずに、別の道を通って帰って行きました。博士たちは、それまでとは違う、まったく新しい、神が導かれる道を生きる者となったのです。

 ここにいます私たちも、クリスマスにおいてまことの救い主イエス・キリストを迎え入れて、それまでとは違う、神が備えてくださる新しい道を、希望をもって、祈りを熱くして歩んで行く者でありたいと思います。

 


   2023年12月31日 降誕節第1主日礼拝 笹井健匡牧師


 今日の聖書の箇所は、イエスの母となるマリアがヨセフと婚約していた、というところから始まります。その婚約中にマリアが妊娠するということが起きました。マリアの妊娠を知った婚約者のヨセフは、大変驚き、悩みました。申命記22章23、24節には、「ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町に引き出し、石で打ち殺さなければならない。」と記されています。マリアが町に引き出され、さらし者にされ、石打ちの刑で殺されるということは、ヨセフにとっては、耐えられないことであったかもしれません。しかし、別の方法もありました。それは離縁するということでした。離縁は婚約の場合は、比較的簡単であったらしく、法廷に持ち込むことなく、離縁状を渡したことを証する二人の証人がいればよかったのです。ヨセフは、マリアとひそかに離縁しようと決心しました。ヨセフがそのように考えていたところ、夢に天使が現れるということが起きました。天使は、マリアが聖霊によって身ごもっていること、そしてマリアの産む子どもに「イエス」という名前をつけるようにと告げました。イザヤ書7章14節に「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」と記されています。この言葉を引用し(23節)、生まれて来る子どもはインマヌエルと呼ばれるのだというのです。インマヌエルというのは、「神は我々と共におられる」(23節)という意味です。ヨセフはこの不思議な夢から覚めると、天使から言われたとおり、婚約者マリアと結婚し、生まれた子どもにイエスという名前をつけました。

 大工という職業を持ち、誠実に日々を生きていた青年ヨセフは、婚約者のマリアの妊娠を知り、絶望的な状況にあった時に「共におられる神さま」の存在を知らされました。また、寒空の下で、夜通し働いていた羊飼いたちは、「自分たちのためにおられる神」が来られたことを知りました。(ルカ2・11)マリアは受胎告知(ルカ1・26-38)の時に神さまが共におられることを知りました。絶望の中にある者へ、人生をあきらめていた者のもとへ、自分を大した人間ではないと思っている者のところへ、「神さまはあなたと共にいますよ。」と告げられたことが、イエスさまのお誕生のメッセージでした。そのメッセージは、今も私たち一人一人のもとへと届けられているのです。

 イエスさまは、インマヌエル、私たちと共におられる方として、この地上を生きられました。そして、復活のイエスさまは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28・20)と言われています。イエスさまは、昔も今も、そしてこれからの未来も、インマヌエルとして、私たちと共にいてくださるのです。

 「神われらと共に」という言葉をもって、クリスマスを祝う者でありたいと思います。

 

2023年12月24日 クリスマス礼拝 アドベントⅣ(降誕前第1主日) 平島禎子牧師


 7章において「インマヌエル」預言をなし、9章において「新しい王」について預言したイザヤは、この11章において「平和の王」の預言をします。前半の1~5節は、途絶えたかに見えたあのダビデ王朝、その子孫の中から真の平和の王が誕生することをあらためて預言します。現に存在するところからの、手の届くところにある新しいリーダーを預言しているようにも思えます。しかし後半の6~10節にいたっては、もはやそのような身近な、現実世界での平和を超えたところにある、神的な平和、聖なる平和について、まるで絵本の世界のように、美しいたとえで朗々と、平和な世界が歌い上げられているように感じます。

 狼、豹は、小羊、子山羊を食し、若獅子は子牛を食していました。それが共に宿り、共に伏し、共に育つというのです。そして大人ではなく、小さい子どもがそれらを導くと。

 さらに牛も熊も獅子も、その子らも、ひとしく干し草を食らう、と言います。そして乳飲み子が毒蛇の穴に入っても、幼子が蝮の巣に手を入れても大丈夫というのです。

 9節には、はじめて神が「わたし」と自己開示され、これらのことは神のなせる業であることが鮮明になります。そこでは、神の聖なる山では、危害も滅亡もないというのです。そしてその理由は、主を知る知識で満たされるからだと言います。

 「知識」という言葉は、情報をいっぱい知っているとかいうよりも、もっと根源的な理解、全身全霊での受け止め、のような感じだと思います。神に全信頼を置く、という感じでしょうか。6節にあるように、導くのは、小さい子どもなのですから。

 今、世界は、このイザヤの預言とは真逆の様相を呈していると感じられている方も多くおられるかも知れません。しかし神の言葉は必ず成就します。

 イザヤが預言した、神の聖なる山から始まる、言わば聖なる平和は、すべての民を救う旗印となりました。飼い葉桶に生まれられた主イエスこそ、聖なる平和への道です。

 だれも害を加えず、滅ぼすこともない世界が、この先に、必ず実現することを信じて、信仰の灯をともしながら、この時を、祈りを熱くして、クリスマスまで歩んで行きたいと思います。

 

2023年12月17日 アドベントⅢ(降誕前第2主日)礼拝 笹井健匡牧師


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