2024年は大変な幕開けだった。1日の午後4時10分に大地震が能登半島を襲った。18日経った今日でも、その惨禍は続いており、被災された方々の苦しい生活が続いている。亡くなられた方々の魂が平安であるように、また愛する者を失われた方々が慰められるようにと心より祈る。被災された方々の日々の生活がなんとか守られるように、何もできない自分がはがゆいが、唯一のできる支援として募金に参加したいと思う。そして、8日の夜に父が亡くなった。こんなにつらいものなのか、という思いがするくらいの衝撃だった。亡くなった日から夜が2,3時間しか眠れず、葬儀の翌日は、徹夜だった。福岡で葬儀が行なわれたので、9日から12日まで福岡に連れ合いと一緒に帰省した。人前では、涙も見せず、自分なりに気丈にふるまっていたつもりだが、どうだったのだろう。幼い頃の父との楽しい思い出が浮かんだり、反抗期だった中高時代には、父と口を効かなかったことなども思い出された。思想的に右よりの父と左よりの私は、大人になってもぶつかることがあった。しかし、年を重ねていくと、互いにやさしくなれたような気がする。父は、一度、児島教会に着た時に、仏教徒であり神社の役員でもあった父が、会堂の真ん中に立ち、十字を切って、黙とうをしたことがあった。あの場面は私の宝物だ。貧しい牧師の生活をしていた私を案じて、経済的援助をしてくれた。よく考えると、してもらったことばかりで、してあげたことなどほとんどないことに気づいた。悔いが残る。葬儀は家族葬で、母と私と連れ合い、義妹と甥の5人と、通夜にいとこが7人、告別式に3人来てくれた。本当にこじんまりとした葬儀だったが、棺の中の父の顔はとても安らかだった。お坊さんも素朴ないい方で、仏式の葬式に出席して初めて読経が身に沁み、またなされた感話もよいものだった。 私はずっとダメ牧師だった。日々の生活の中で聖書も読まなければ、祈りもしない。礼拝での説教を作ることだけに一生懸命という情けない有様だった。しかし、どういうわけか、今年になって、祈りだした。聖書を読み、副読本として「榎本保郎一日一生」、「ボンヘッファー一日一生」、渡辺和子さんの366日の言葉、三浦綾子さんの366日の言葉を読んで、祈るということを再開した。めずらしく今日まで続いている。それは父の死を予見してのことだったのかもしれない。人前で、連れ合いの前でも涙を見せなかった私だったが、児島に帰ってきた12日の夜、祈りに行くと、涙があふれて止まらなかった。泣きながら、祈りに祈った。1時間くらいの長い時間だったのではないかと思う。そうすると、心が強くなっていくのを感じさせられた。神さまが私の存在を包んでくださり、イエスが共にいて、涙を流してくださった後、泣かなくてもよい、と言われたような気がした。そして、父の死は一粒の麦であると思わされた。一粒の麦は死ねば多くの実を結ぶ。私も実を結ばなければならないと思った。父の死を無駄にすることなく、懸命に生きていくことが私の使命であるとも思わされた。今も心は重いが、しかし、前を向いている。とはいえ、また不信仰に陥るかもしれないが、日々祈り、神さまの御心を求めていきたいと思う。 |