日々の思い

日々の生活の中で、思ったこと、感じたことなどを書いています。
:記憶


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聖書研究祈祷会より 1月17日(水)24日(水) [ 返信 ]
平島禎子
Date: 2024/01/24 16:28
1月17日(水) ヨハネによる福音書4章1~26節
・イエスは洗礼を授けられるということはなかった、イエスは聖霊による洗礼を授けられる。弟子たちが洗礼を授けていたが、それは水によるもの?
・シカル=シケム(←アブラハムが祭壇を築いた)
*イエスとサマリアの女
7~15節:主題は水。水のやりとりがなされている。イエスは女に水を求めた。ユダヤ人は他の民族と交際していなかったので、ユダヤ人(イエス)がサマリア人(女)から水をもらうことはありえないことだった。
10節:「主よ」という女の言葉。この女は心が渇いていた。
16~26節:この女はイエスのことを預言者という。彼女には夫が5人いて今一緒にいる男とは結婚していないことをイエスに言い当てられる。この女はこのことからも過去に傷があったのかもしれない。
23節:礼拝の本質ー霊と真理をもって、心をこめて真の信仰をもって礼拝することが大事。礼拝の場が大事なのではない。
25節:女性はメシアを求めていた。
26節:イエスはズバッと自分がメシアであることを開示された。
☆サマリア人であり、女性であり、身をもちくずした女をイエスは救われた。救いから外れている人を救うことがイエスの使命。
☆この女は昼間に人目を忍んで水を汲みにきていた。そのことを知って、イエスはやって来られた。イエスは救いを求めている人のところに自ら来て下さる方。

1月24日(水)ヨハネによる福音書4章27~42節
27節:弟子たちが食べ物を買って帰ってきた。女性と日中話すことは憚れていた。弟子たちはイエスと女性をスルーした。
28~29節:女性は水ガメを置いて、1㎞離れたシカルの町へ行った。シカルの町にも井戸はあったが、この女性は、人目を憚り、昼に水を汲みにきていたのだった。イエスの存在は驚くべきものだった。彼女は水のことを忘れて、人々にイエスのことを告げたいと思い、シカルの町へ行った。
29節:「さぁ、見に来てください。」(1:46参)と人々に伝えた。女性は変貌をとげていた。人目を憚って生きていた女性の暗い表情がおそらく輝き、活気に満ちたものとなっていたのではないか。女性の変わり様、存在自体が証になった。
31~38節:弟子たちの話 食べ物の話に変わる
イエスさまは伝道に心を燃やしていた(32節)。34節の言葉は悪魔の誘惑(マタイ、ルカ)の時に言われたものと同じ意味合い。神の御心をなすことが私の食べ物である、とイエスは言われたのではないか。
35~38節:伝道をなすこと(刈り入れ)がサマリアに来た意味。(使徒言行録8章フィリポのサマリア伝道につながった)
39~42節:サマリアの人たちがイエスのところへやって来る。
42節:「わたしたちが信じるのは…わたしたちは自分で聞いて。この方が本当の救い主であるとわかったからです。」誰か何かを通してイエスと出会う。最後には自分が信じるようになる。
☆昔の教会は地域共同体の中にあったが、現代は人の行き来がある。移動がある。外国からも。現代は多様なルーツを持つ信仰共同体としての教会、新しい教会の誕生が望まれるのではないか。
☆個人としては、最終的に自分で聞いて信仰を育むことが大切であると思わされた。

























































礼拝 [ 返信 ]
平島禎子
Date: 2024/01/21 15:28
笹井牧師が代務をしている新見教会に私も協力牧師として奉仕をしている。新見教会は月に3回の礼拝だ。第一土曜日の午後1時30分からと第三土曜日、そして月の最後の日曜日の午前10時から。基本、第一土曜日は笹井牧師が説教をし、第三土曜日は私が説教をしている。次の最後の日曜日は信徒祈祷礼拝。信徒だけで集まって、祈りを合わせる礼拝。主な信徒は三名。児島から新見へは、車で、総社市と高梁を通って行く。行きがけは昼食休憩を含めて2時間半くらいかかる。お昼は総社のはずれ、高梁市との境近くの「たね井や」という地産地消のバイキングにいつも行っている。野菜が中心だが、魚、スパゲッティやミニコロッケ、おやきなどもあり、デザートもフルーツポンチやゼリーなどがある。あと、コーヒーも。昨日はなんと「ぜんざい」があった。もちろん餅入り(笑)ダイエットをしなければならない身であるが、誘惑に負けて、お餅を2個入れてしまった…。おなかいっぱいになって、新見教会へgo! 1時過ぎ新見教会に着いた。信徒の方が一人先に来ておられた。私の父が亡くなったことを知っておられ、お悔やみを言ってくださった。感謝だった。で、この日の新見教会の礼拝説教は私だったのだが、マスクをしており、事前に栄養ドリンクを飲んでいたせいか、胸が熱くなり、息苦しくて、話すのが大変だった。疲れてたので、栄養ドリンクを飲んだのが失敗だった。自分の力で話そうと思っていたせいだと思う。栄養ドリンクに頼るなんて不信仰だった。反省。昨日は、4人の信徒さんの出席だった。礼拝後、茶話会をするのだが、一人の方のお父様が病床にあり、洗礼をどうか、という話が出た。いろいろと話した結果、行いましょう、ということになった。病床洗礼という形になる。どことなくあたたかさを感じる教会だ。
今日は本務教会の児島教会での礼拝。説教は笹井牧師。私は司式だった。「新しく生まれる」と題しての説教。天から吹いてくる風、聖霊によって、イエスさまによって、人間はいくつになっても新しく生まれることができる、新しい人間になることができるのだ、ということを聞き、主にあって前向きに生きていきたいと思わされた。礼拝後は、「マナの会」(女性が中心の会)があり、担当のI姉の用意してくださったサンドイッチ🥪と紅茶にみかん、あと他の信徒のお子さんからいただいたおかきをいただき、発題を聞いた。「天城教会にある石井十次ゆかりの鐘」についての新聞記事と「横田早紀江さん(拉致被害者横田めぐみさんの母)とお孫さん、ひ孫さんの再会」に関する記事について話された。敗戦記念日の正午に天城教会で石井十次ゆかりの鐘が鳴らされるとのこと、その鐘には、「天は父なり人は同胞なれは互いに相信し相愛す可(べ)き」「天父は恒に働き給ふ我等も俱(とも)に労働す可(べ)き事」などの文言が記されているとのこと。石井十次の信仰がこめられた鐘なのだ、と思うと共に、人間は互いに愛し合い、信じ合うべき存在であり、戦い合う存在ではない、ということから平和の鐘と呼ばれるのにふさわしいと思わされた。横田早紀江さんの記事の冒頭には、聖句が記されていた。「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることはありません。」(ローマ人への手紙5章3~5節)(←新聞記事のまま)早紀江さんの孫のウンギョンさんとその子ども、ひ孫にあたるチオ二ちゃんと3人が写った写真が掲載されていた。めぐみさんがそこにいたらどんな喜びだっただろうと思う。亡くなったと北朝鮮側は言っているが、実際はそうではないと思う。「絶対生きている。おばあちゃんも他の家族もそう信じている。喜びの日が来るまで忍耐強く待って希望を失わないでね。」という早紀江さんの言葉が記されていた。あまりにも長い年月が経っている。しかし、支持する私たちも早紀江さんの気持ちを大切にし、希望を持つものでありたいと思わされた。パウロの苦難の中にあっても忍耐をなし、希望を生み出していったように。他人事と考えずに祈りの課題にしたいと思わされた。また、マナの会の中で、別の信徒から「カルト」の問題についての話もあった。何もない素振りで教会にやってきて、教会を乗っ取ろうとする手口をもつカルド宗教には気を付けなければならない。カルトはあくまでも洗脳集団なのだから、全うな宗教ではない。カルトかそうでないかの判断基準の一つとして、献金の問題があると思う。献金を強要してくる宗教は全うなものではないので、ご注意を!

父の死 [ 返信 ]
平島禎子
Date: 2024/01/18 10:50
2024年は大変な幕開けだった。1日の午後4時10分に大地震が能登半島を襲った。18日経った今日でも、その惨禍は続いており、被災された方々の苦しい生活が続いている。亡くなられた方々の魂が平安であるように、また愛する者を失われた方々が慰められるようにと心より祈る。被災された方々の日々の生活がなんとか守られるように、何もできない自分がはがゆいが、唯一のできる支援として募金に参加したいと思う。そして、8日の夜に父が亡くなった。こんなにつらいものなのか、という思いがするくらいの衝撃だった。亡くなった日から夜が2,3時間しか眠れず、葬儀の翌日は、徹夜だった。福岡で葬儀が行なわれたので、9日から12日まで福岡に連れ合いと一緒に帰省した。人前では、涙も見せず、自分なりに気丈にふるまっていたつもりだが、どうだったのだろう。幼い頃の父との楽しい思い出が浮かんだり、反抗期だった中高時代には、父と口を効かなかったことなども思い出された。思想的に右よりの父と左よりの私は、大人になってもぶつかることがあった。しかし、年を重ねていくと、互いにやさしくなれたような気がする。父は、一度、児島教会に着た時に、仏教徒であり神社の役員でもあった父が、会堂の真ん中に立ち、十字を切って、黙とうをしたことがあった。あの場面は私の宝物だ。貧しい牧師の生活をしていた私を案じて、経済的援助をしてくれた。よく考えると、してもらったことばかりで、してあげたことなどほとんどないことに気づいた。悔いが残る。葬儀は家族葬で、母と私と連れ合い、義妹と甥の5人と、通夜にいとこが7人、告別式に3人来てくれた。本当にこじんまりとした葬儀だったが、棺の中の父の顔はとても安らかだった。お坊さんも素朴ないい方で、仏式の葬式に出席して初めて読経が身に沁み、またなされた感話もよいものだった。
私はずっとダメ牧師だった。日々の生活の中で聖書も読まなければ、祈りもしない。礼拝での説教を作ることだけに一生懸命という情けない有様だった。しかし、どういうわけか、今年になって、祈りだした。聖書を読み、副読本として「榎本保郎一日一生」、「ボンヘッファー一日一生」、渡辺和子さんの366日の言葉、三浦綾子さんの366日の言葉を読んで、祈るということを再開した。めずらしく今日まで続いている。それは父の死を予見してのことだったのかもしれない。人前で、連れ合いの前でも涙を見せなかった私だったが、児島に帰ってきた12日の夜、祈りに行くと、涙があふれて止まらなかった。泣きながら、祈りに祈った。1時間くらいの長い時間だったのではないかと思う。そうすると、心が強くなっていくのを感じさせられた。神さまが私の存在を包んでくださり、イエスが共にいて、涙を流してくださった後、泣かなくてもよい、と言われたような気がした。そして、父の死は一粒の麦であると思わされた。一粒の麦は死ねば多くの実を結ぶ。私も実を結ばなければならないと思った。父の死を無駄にすることなく、懸命に生きていくことが私の使命であるとも思わされた。今も心は重いが、しかし、前を向いている。とはいえ、また不信仰に陥るかもしれないが、日々祈り、神さまの御心を求めていきたいと思う。

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