日々の思い

礼拝
平島禎子
Date: 2024/01/21 15:28
笹井牧師が代務をしている新見教会に私も協力牧師として奉仕をしている。新見教会は月に3回の礼拝だ。第一土曜日の午後1時30分からと第三土曜日、そして月の最後の日曜日の午前10時から。基本、第一土曜日は笹井牧師が説教をし、第三土曜日は私が説教をしている。次の最後の日曜日は信徒祈祷礼拝。信徒だけで集まって、祈りを合わせる礼拝。主な信徒は三名。児島から新見へは、車で、総社市と高梁を通って行く。行きがけは昼食休憩を含めて2時間半くらいかかる。お昼は総社のはずれ、高梁市との境近くの「たね井や」という地産地消のバイキングにいつも行っている。野菜が中心だが、魚、スパゲッティやミニコロッケ、おやきなどもあり、デザートもフルーツポンチやゼリーなどがある。あと、コーヒーも。昨日はなんと「ぜんざい」があった。もちろん餅入り(笑)ダイエットをしなければならない身であるが、誘惑に負けて、お餅を2個入れてしまった…。おなかいっぱいになって、新見教会へgo! 1時過ぎ新見教会に着いた。信徒の方が一人先に来ておられた。私の父が亡くなったことを知っておられ、お悔やみを言ってくださった。感謝だった。で、この日の新見教会の礼拝説教は私だったのだが、マスクをしており、事前に栄養ドリンクを飲んでいたせいか、胸が熱くなり、息苦しくて、話すのが大変だった。疲れてたので、栄養ドリンクを飲んだのが失敗だった。自分の力で話そうと思っていたせいだと思う。栄養ドリンクに頼るなんて不信仰だった。反省。昨日は、4人の信徒さんの出席だった。礼拝後、茶話会をするのだが、一人の方のお父様が病床にあり、洗礼をどうか、という話が出た。いろいろと話した結果、行いましょう、ということになった。病床洗礼という形になる。どことなくあたたかさを感じる教会だ。
今日は本務教会の児島教会での礼拝。説教は笹井牧師。私は司式だった。「新しく生まれる」と題しての説教。天から吹いてくる風、聖霊によって、イエスさまによって、人間はいくつになっても新しく生まれることができる、新しい人間になることができるのだ、ということを聞き、主にあって前向きに生きていきたいと思わされた。礼拝後は、「マナの会」(女性が中心の会)があり、担当のI姉の用意してくださったサンドイッチ🥪と紅茶にみかん、あと他の信徒のお子さんからいただいたおかきをいただき、発題を聞いた。「天城教会にある石井十次ゆかりの鐘」についての新聞記事と「横田早紀江さん(拉致被害者横田めぐみさんの母)とお孫さん、ひ孫さんの再会」に関する記事について話された。敗戦記念日の正午に天城教会で石井十次ゆかりの鐘が鳴らされるとのこと、その鐘には、「天は父なり人は同胞なれは互いに相信し相愛す可(べ)き」「天父は恒に働き給ふ我等も俱(とも)に労働す可(べ)き事」などの文言が記されているとのこと。石井十次の信仰がこめられた鐘なのだ、と思うと共に、人間は互いに愛し合い、信じ合うべき存在であり、戦い合う存在ではない、ということから平和の鐘と呼ばれるのにふさわしいと思わされた。横田早紀江さんの記事の冒頭には、聖句が記されていた。「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることはありません。」(ローマ人への手紙5章3~5節)(←新聞記事のまま)早紀江さんの孫のウンギョンさんとその子ども、ひ孫にあたるチオ二ちゃんと3人が写った写真が掲載されていた。めぐみさんがそこにいたらどんな喜びだっただろうと思う。亡くなったと北朝鮮側は言っているが、実際はそうではないと思う。「絶対生きている。おばあちゃんも他の家族もそう信じている。喜びの日が来るまで忍耐強く待って希望を失わないでね。」という早紀江さんの言葉が記されていた。あまりにも長い年月が経っている。しかし、支持する私たちも早紀江さんの気持ちを大切にし、希望を持つものでありたいと思わされた。パウロの苦難の中にあっても忍耐をなし、希望を生み出していったように。他人事と考えずに祈りの課題にしたいと思わされた。また、マナの会の中で、別の信徒から「カルト」の問題についての話もあった。何もない素振りで教会にやってきて、教会を乗っ取ろうとする手口をもつカルド宗教には気を付けなければならない。カルトはあくまでも洗脳集団なのだから、全うな宗教ではない。カルトかそうでないかの判断基準の一つとして、献金の問題があると思う。献金を強要してくる宗教は全うなものではないので、ご注意を!

:記憶

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