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 暦というのは、なかなかおもしろいものです。特に、月日と曜日、さらにうるう年まであるので、なかなか同じめぐり合わせにあいません。今から11年前、3月25日(火)に引っ越しして来て、荷物をアパートに入れ、その後、教会で歓迎会を開いていただきました。そして11年前のちょうど今日30日(日)、児島教会では高橋博牧師をお招きしての創立66周年記念礼拝でしたので、お邪魔をしないようにとお隣の琴浦教会の礼拝に出席しました。なんとも不思議なスタートとなりました。この2014年も、なんとイースターは4月20日でした。すごい。

 今日の聖書には、「時」という言葉が30回も繰り返されています。人生で経験する様々な時が記されています。「私」の視点から記されていますが、人は一人で生きて行くのではありません。この30回の時を貫く重層低音のような「時」として、友と出会う時、友と別れる時を思います。さきほど歌った讃美歌にいろいろな信仰の友が登場します。今は、先日召天された故出石洋子姉のことが一番思い浮かびます。

 以前にもお話しましたが、前任の伊予小松教会に赴任した時、1年目の夏に、一人の教会員が天に召されました。書記役員をされていて、物腰おだやかな、知的で清楚な方でした。教員を退職されてから特に教会の奉仕を熱心にされていたようです。この方の愛称聖句が伝道の書3章11節「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」でした。新共同訳になって翻訳が大きく変わり、残念です。

 春が来て、たくさんの色とりどりの花々が咲き誇っています。それを見ていると、本当に神のなさることは美しいとあらためて思います。神の業はすべて美しいのです。

 児島教会は77年の歩みを重ねて来ました。人間的な思いに立てば、いろいろなマイナスのこともあったかも知れません。しかし、それらはすべて神の御手によって、美しい事柄へと昇華されて行くのです。時にかなってなされた御業が長い歴史とともに熟成され、華やかな香りを、キリストの香りを放って広がって行きます。

 これから80年、そして百年に向けて、この地にイエス・キリストの福音を、その香りをさらに広げていくことができるように、皆で心を合わせ、祈りを熱くして児島教会の歩みを進めて行きたいと思います。

2025年3月30日(日)教会創立77周年記念礼拝 笹井健匡牧師


 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい。」(24節)とイエスさまは言われます。「自分を捨てる」というのは、自分を失くしてしまう、自己消滅してしまうことではありません。人間的な思いを廃して神さまに従うということです。「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」というのは、自分の力ではどうしても変えられないような病気やコンプレックスを持ったままで、人間よりは神に従うのだ、という思いを持って生きること、人から笑われようが、憎まれようが、私は神に従う道を歩むと決意すること、それが自分の十字架を背負うということであろうと思います。イエスさまの後について行くのには、何の条件もいりません。もっと立派な人間にならなければ、もっと知識や知恵をもたなければ、もっと信仰をもたなければ、もっとこのようにしなければ、などという条件は一切いりません。そのままのあなたで、ぼろぼろのままで、私について来なさい、とイエスさまは言ってくださるのです。

 私たちは、うまくいっていると思える時でも漠然とした不安を持つことがあるかもしれません。たとえ、一生懸命に仕事をしても、また、一生懸命に趣味に打ち込んでも、また、一生懸命に家族や友人を愛しても、それでも一抹の不安を感じるならば、それは、本当の救いに与っていないということであろうと思います。この世の人たちの言うことを聞き、世間体を気にするよりも、まず、神さまの御心を尋ね求める、そして、神の御心に従う、イエスさまに従うということではないかと思います。

 イエスさまに従うとは、自分の十字架を背負って、イエスさまの後をついて行くことです。私たち一人一人には悩みや苦しみがありますが、神さまは、そのことを通して、私たちをどのように導こうとされるのかということに思い至ることが大事だと思います。時として、イエスさまの前を行こうとする私たちであるかもしれませんが、しかし、イエスさまは、その都度、その都度、「引き下がれ、私に従いなさい。」と言ってくださるのです。

 このレントの時、「自分の十字架を背負ってイエスに従う」という決意をなし、神さまの思いを尋ね求めていく信仰を持って歩む者でありたいと思います。


2025年3月23日受難節第3、復活前第4主日 平島禎子牧師


 過ぎた日曜日、月曜日と故出石洋子姉の葬りの業が行われました。世の常とは言え、大変さびしい思いがします。今年のレント、これ以上悲しいことは起こらないようにと切に祈ります。

今日の聖書は、「ベルゼブル論争」と言われているところです。イエスさまの評判がものすごいことになり、それへの妬みと悪意を込めて、悪霊の力を使っているとマルコ福音書には記されています。マタイはそれを具体的ないやし物語の文脈で記します。話すこと、見ることができるようになった人を見て、イエスさまをほめたたえた群衆に対して、ファリサイ派の人々が、それは悪霊の力を用いていると水を浴びせたのです。

イエスさまは、悪霊たちの国や、略奪する強盗のたとえを用いて分かりやすく語られました。ここまではいいのですが、問題は最後の結論です。ここで言われているのは、一言で言うと、神やイエスへの批判はどんなものでも許されるが、聖霊に対する批判は許されないというものです。ルカはこの部分を省いています。マタイは、さらに最後の32節で冒涜に加えて「言い逆らう」を重ねています。聖霊に逆らうとは、どういうことでしょうか。

ここでは神さまもイエスさまも大きな愛のお方であるので許されるけれども、聖霊は神の働きなので、それに反対するというのは結局のところ、悪魔の側に組みすることになる、だから結果として神からどんどん離れていくので、許されようがなくなってしまうと言うことかも知れません。

今回わたしには少し違う角度から示されたことがありました。それは使徒言行録16章にある「マケドニア人の幻」のところにある、聖霊が伝道を禁じるというものです。聖霊の働きである伝道を聖霊が禁じる、そういうこともあるということです。

 2月28日に召天された小暮光司牧師、3月8日に召天された出石洋子姉、そして3月11日に永眠された石川一雄さん、私たちにとっては大変関係の深い方々でしたが、それぞれに、いろいろと止められました。本来ならいいことと思えることであっても、聖霊が立ちはだかることがあります。やはりその時には、自分自身の思い、それがどんなに強いものであっても、時に、どうして、と思えるようなことであっても、立ち止まって、方向転換しなければなりません。

レント、克己の時、聖霊に従う歩みをこそ、なして行きたいと思います。

 

2025年3月16日(日)受難節第2(復活前第5)主日礼拝 笹井健匡牧師


 今日の聖書のマタイによる福音書6章9節から13節までは、イエスさまが私たちに教えてくださった「主の祈り」が記されています。11節から13節までの後半は、人間の生活者としての祈りです。

 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」(11節) イエスさまの周りに集まったのは、貧しい人、疎外された人たちでした。金銭の余裕などない人たちでした。この祈りは、それらの人たちにとって切実なものでした。イエスさまはそれらの人たちにこの切実な祈りを教えられました。今を生きる私たちにはそのような切実さはないかもしれませんが、世界では飢餓で苦しんでいる人たちがいる、日本でも貧困のために食べることができない人たちがいます。そのことを覚えて、祈り、できることをしていかなければと思います。

 「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」(12節) 神さまと私の関係において、私が赦されていることと、他者と私の関係において、私が赦すということは結びついているのです。神との縦の関係と人間同士の横の関係とはつながっていなければならないです。私は十字架の縦を神との関係、横を人との関係として見ています。その十字架が成立するのは、十字架にかけられたイエスさまの存在があるからこそと思っています。

 「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者たちから救ってください。」(13節) キリスト者にとっての誘惑とは「神から離れること」です。悪魔は、私たちが神から離れるように色々な手を使ってきます。5日の灰の水曜日からレントに入りました。長かった降誕節も終わり、受難節となりました。この期間克己の生活をしようと思われていることだと思います。好きな飲み物や食べ物をがまんしようと決めた人もいるかもしれません。また、何かの課題を自分に課している人もいるかもしれません。それらのことを邪魔しようとするのが悪魔の誘惑です。またそれだけでなく、病気になることも悪魔の誘惑であるかもしれません。神さまを信じているのになぜこんなことになるのであろうか、という思いを持つこともあるかもしれません。そのような思いに悪魔がつけこんでくることもあります。病気だけでなく、人生の途上で起きる困難や悲しみも悪魔のつけこむ事柄であろうと思います。人間は弱い存在です。ですから、誘惑を受けることがないように、悪から救ってくださいという祈りを日々なしていくべきであろうと思います。

 「主の祈り」は「われら」の祈りです。一人で祈る時もそこにはいないけれども同信の友がいるのだということを覚えることが大切であろうと思います。また、祈る言葉が見つからない時でも「主の祈り」は祈ることができます。

レントの時、祈りを熱くし、われらの祈りである「主の祈り」を大切にし、克己の日々を歩んでいく者でありたいと思います。


2025年3月9日受難節第1、復活前第6主日 平島禎子牧師


 長く続いて来ました降誕節も、今日が最後の日曜日となりました。5日は灰の水曜日となります。イースター(4月20日)までレント、克己の時を過ごしますが、今年は特に「悔い改め」という言葉が心に浮かびました。

 今日の聖書は、悔い改めない町、そこに住む人々に対してイエスさまが厳しく非難されているところです。どうしてイエスさまはこんな厳しい言葉を言われたのでしょうか。しかも「町」を断罪されているので、そこにいる人々をみんな十羽ひとからげで非難されているように感じてしまいます。旧約の時代に、神の厳しい罰を受けたティルス、シドン、ソドムよりも、現在宣教中の、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの方が重い罰を受けると言われているのです。

 23節のカファルナウムに関する言葉に、イエスさまの思いが最もよく表れているように思います。当時、カファルナウムではギリシャ風の建築物が多く建てられていたそうです。当時の人々にとってその壮麗さは、まるで天に向かってそびえたつ塔のように見えたかも知れません。バベルの塔を思い起こします。そんな開発、開発で忙しい上流階級の人々、神など忘れ、この世の繁栄に心を奪われてしまっている人々の在り方をイエスさまは厳しく叱られたのだと思います。

 次の聖書の個所、25節を見ると、そこに、神さまがイエスさまを遣わされた真意が記されています。神はその御旨を、幼子のような者たちに示されたのです。ここにある「知恵ある者」「賢い者」こそ、イエスさまが批判された町々の、主だった人々、本来民を指導し、神の喜ばれる社会を築いて行く責任のある人々なのだと思います。

 富に仕えると、神が見えなくなります。富はあくまで神さまの御用に用いてこそ、本来の力を発揮し、有用なものとなるのです。

 今も、イエスさまは、この世で力のない、無名の、私たちを選んで、神さまの御用に用いて下さっています。

 イエスさまによって、神を示された者として、このレントの時を歩んで行きたいと思います。悔い改めることを大切にして。

 「悔いる」ことも大事ですが、より大切なのは「改める」ことです。何か失敗したり、やらかしてしまったら、即反省し、神の方へ向き直る、そして歩み直していく歩みを、イースターの喜びの日を遠くに見ながら、共に励まし合い、祈り合いながら進めて行く者でありたいと思います。

 

2025年3月2日(日)降誕節第10主日礼拝 笹井健匡牧師


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