古代世界においては、名前によって人と人を区別するだけでなく、その名前の持ち主の本質と能力とが結びついており、色々な人の名前を使って奇跡を行なう者がいたそうです。私たちの信じている「イエスの名」も力のあるものでした。弟子たちにとって、「イエスの名」というのは、大きな力でした。

 聖霊降臨の出来事の後で初めて「イエスの名」を使ったのはペトロでした。「イエスの名」によって、生まれつき足の悪い男の癒しがなされたのです。この出来事が起きた後、ペトロは神殿で説教をしました。(3・11~26) ペトロは、その中で、「あなたがたの見て知っているこの人を、『イエスの名』が強くしました。それは、『その名』を信じる信仰によるものです。…」と言っています。ペトロは、自分が癒したのだとは決して言いませんでした。足が不自由だった男の「イエスの名」への信仰によって癒やしがなされたのである、と言うのです。ペトロがいくら立派であったとしても、癒やされた人の信仰がなければ、癒しの業はなされないのです。ペトロの説教を聞いて、仲間になった男たちの数は五千人になりました。女たちも加えると五千人以上の人たちの群れがペトロたちの仲間になったのです。

 しかし、ペトロとヨハネが話をしている時、神殿守衛長とサドカイ派の人々が近づいてき、二人を捕らえて、翌日まで牢に入れました。翌日になると最高法院が開かれ、そこに、議員、長老、律法学者たち、大祭司一族が集まりました。ペトロとヨハネはこれらの人たちに囲まれ、真ん中に立たされました。「お前たちは何の権威によって、『だれの名』によってああいうことをしたのか。」と尋問されました。ペトロはその問に対して、聖霊に満たされて答えました。「あなたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあの『ナザレの人、イエス・キリストの名』によるものです。」とその答の中で言っています。ペトロは力強く言います。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが『救われるべき名」は、天下において『この名』のほか、人間には与えられていないのです。』イエスさま以外に私たちを救うことのできる方はいないのです。私たちが「救われるべき名」はただ一つ、「イエスの名」以外にはないのです。

「イエスの名」は、「救われるべき名」です。「救われるべき名」とは、強い表現です。「救われる名」でもいいと思いますが、「べき」と言う言葉が入ることによって、その意味が強くなると共に、「皆が救われるべき名」なのだ、という意味になり、救いの対象がすべての人になるのではないでしょうか。

 「イエスの名」は「救われるべき名」であり、「その名」はすべての人にひらかれているのです。そのことを心に留め、「イエスの名」によって、祈り、またある時には癒され、そしてまた、宣教の業をなしていく者でありたいと思います。真の救いに与った者として、「救われるべき名」である「イエスの名」を謙遜な心を持って、用いていく者でありたいと思います。

     2022年6月19日 聖霊降臨節第3主日 平島禎子牧師


 7年前の今日、大島達子姉が召天されました。一世紀に迫るすごい人生、また尊敬すべき信仰人生でした。私笹井健匡は、明日60歳の誕生日、いわゆる還暦を迎えますが、達子さんからすれば、まだまだひよっこかも知れません。

 中学2年で親友の死を、高校2年でクラスメイトの自死を経験した私は、どこかに救いを求めていたのだと思います。そして最終的に導かれたのが、キリスト教の教会でした。そこは私にとって、それまでの価値観が逆転するような、地上のパラダイスだったのだと思います。

 今日の聖書に書かれている「信者の生活」の様子は、ペンテコステに誕生したばかりの、2千年前の教会の様子を伝えてくれています。具体的な個々の事は違いますが、その精神というか、大切な核心は、私が出会った教会の姿そのものでした。信徒として10年間お世話になるなかで、自他の、人間的な破れや欠けも多く経験しましたが、それを越えて余りある愛と希望と、そして信仰をいただきました。

 イエスさまの時代、荒れ野での共同体を形成していた信仰者の群れはいろいろありましたが、教会は、町々村々に、建てられて行きました。人々の日常生活の営みのただ中に、神の奇跡が出現していたのです。現代でも寺社の多くは人里離れたところにあったりしますが、教会は街の真ん中に、人が多いところに存在しています。

 召命を受けて、会社を辞める時、上司から「信じるものがある人は強いね。」と言われました。そうです。私たちはイエス・キリストを信じる者です。信じて生きる喜びは、何よりも強く、他の何ものにも代えられません。

 現代は、いろいろな宣教の困難に囲まれていますが、一番大事なことは、自らが信じる人生を生きて行くことだと思います。必要なら、神さまは必ずや道を開いて下さる方です。その神さまに心から、最後まで、信頼をして、イエスさまを信じる人生を全うして行く者でありたいと思います。

 

     2022年6月12日 聖霊降臨節第2主日礼拝 笹井健匡牧師


 ペンテコステおめでとうございます。

 五旬祭(ペンテコステ)の日、 イエスさまの弟子たちは全員一つになってエルサレムのある部屋に集っていました。その時に、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、家中に響いた」(2節)のです。その出来事は、予測不可能な突然のものでありました。それは「突然」の「風」であったのです。「風」という言葉は、「プノエース」というギリシア語で、「風、息」という意味があります。4節に記されている「霊」、「聖霊」を表すギリシア語は「プネウマ」で、「風、息、霊」という意味があります。異なる言葉ですが、この二つの言葉は同義語として捉えることができます。このことから、風が吹いたり、鳴ったりするのは、「霊」を感覚的に示す徴であるということが表されているのではないかと思います。

 そして、次に「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまる」ということが起きました。「炎のような舌」も「聖霊」を意味しています。ここで特筆されていることは、霊が一人一人の上に与えられたということです。一人一人の上に聖霊が降ったということはとても大切なことであり、互いに違いを認め合いながらも、その違いを生かし合うということが大切なことではないかと思います。

 ヨハネによる福音書3章8節には、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くか知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と記されています。聖霊は思いのままに働くのだと思います。どこから来たかはわからなくても仕方ありませんが、どこへ行くのかは知りたいものです。しかし、聖霊に導かれて生きるということは、どのようなところに行くのかわからず、霊に導かれるままに、神さまに信頼して生きていくことではないかと思います。

 聖霊の働きは「風」の働きと似ています。私たちをやさしく包む風、時に激しく吹きすさぶ風、これらの風に身を委ねて生きていくものでありたいと思います。教会も聖霊の風が吹くままに、存続していくものであります。児島教会がこれから先どのようになるのかは、誰も知りません。しかし、どうなるかはわからないけれども、児島教会にいる以上は、教会が成長していくことを望んでいきたい、そのために聖霊に導かれながら、なすべきことをなしていきたいと思っています。

 今日はペンテコステ、教会の誕生日です。大きな風が吹き、炎のような舌が一人一人に降った、聖霊降臨の出来事が起きた日です。今日のこの日、私たち一人一人の上にも聖霊が降ることを信じ、聖霊によって満たされる教会であることを再確認する日でありたいと思います。神さまのもとから吹いて来る風を受け、それぞれの賜物をいかしあう教会であるよう祈る者でありたいと思います。

     2022年6月5日 ペンテコステ 聖霊降臨節第1主日 平島禎子牧師


 子どもの頃、地面との距離が近かったせいか、蟻の行列を見るのが好きでした。蟻とは意味内容が違いますが、人間も行列をつくります。行列というのは、考えて見ると不思議なものです。みなさんは、どんな経験を持っておられるでしょうか。

 人間の行列の理由というか、本質は「待つ」ということにあります。「待つ」のが得意な人も苦手な人もいると思いますが、わたしはクリスチャンになってから、少しだけ待つのが得意というか、好きになりました。それは信仰者にとって「待つ」とは「祈っている時」でもあるからです。あてもなく、何もなく待つというのは大変しんどいものかも知れません。しかし明確な目的があり、そのことについての確信が与えられている時、その時まで「祈って待つ」のは、苦痛どころか、喜びであったりします。

 今日の聖書には、イエスを天に見送った後の、弟子たちの様子が記されています。復活の主イエスとの、喜びの日々、40日間を終えた後、ペンテコステまでの十日間は、ふつうだったらイエスと再び別れた悲しみに支配されているところでした。しかし彼ら彼女らの心には、イエスから聞いた神の約束がありました。

バプテスマのヨハネの水の洗礼を越える、聖霊による洗礼を授けられる、という約束でした。この、「イエスから聞いた神の約束」という何よりも確かなものを、彼ら彼女らは熱心に祈っていたのです。

 そこには、復活を経験した弟子たち、女性たち、イエスの母・兄弟たちを中心に、120人ほどの人々がいたのです。そして心を合わせて一つになっていたのです。まさに「祈りの集団」でした。真の愛と信仰と希望によって、何ものをも恐れない、約束への確信に満ちた群れになっていたのだと思います。そこについに約束の聖霊という”風”が吹いて、ペンテコステが起こったのです。

 時代や状況は大きく異なりますが、今の私たちにも神の約束は与えられているはずです。2000年という月日を、私たちの前の信仰者たちも、厳しい状況を前にしても、祈って待つことを通して、乗り越えて来たのだと思います。

 今年もペンテコステの出来事が私たちの上に起きるよう、祈って待つ者でありたいと思います。

 

       2022年5月29日 復活節第7主日礼拝 笹井健匡牧師


 「天上の友第四編」という非売品の本があります。旧組合教会を中心にした会衆主義教会の伝統と精神を受け継ぐ諸教会・伝道所及び関係学校や関係団体に仕え、天に召された教師たち(牧師、神学教師、教務教師)の人生が一人一頁という短い文章で記されています。人は必ず死にます。しかし、この「天上の友」に記されている人々のように、この世を生き抜いたクリスチャンがいたのだと思うと、死は恐れるに足らず、と励まされる気持ちになります。

 ヘブライ人の手紙11章1節には、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」と記されています。そして、そのような信仰をもった昔の人たちの名前が4節から12節まで、また17節から38節までに記されています。そして、それらの人たちは信仰によってこの地上を生きたということが記されています。まさに、「雲のような証人」がいるのです。聖書の時代から、数えきれないほどの信仰者たちの群れが私たちとつながっているのです。それらの人たちは、信仰を抱いて死にました。死ぬ時も望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することができました。これらの人たちは自分たちの望みは果たされるということを信じて、召されていったのです。

 私たちの人生は、この世での旅路です。人生という旅を私たちは歩きますが、それのみが事実ではありません。「自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であること」をクリスチャンは知っているからです。彼ら、彼女らにも地上の故郷はあったはずです。しかし、その地上にまさった故郷、天の故郷を熱望していたのです。神さまは、それらの人たちのために「都」を準備してくださったのです。(16節) 私たちの帰る故郷は「天の故郷」です。しかし、この世のことをおざなりにしていいということではありません。この世で「望み」と「見えない事実」を持ちつつ前を向いて歩いていくということが大事ではないかと思います。

 私たちには「天の故郷」があります。「天の故郷」は遠い昔から変わらずに存在します。そして、故郷というからには、わたしたちは以前すでに「天の故郷」にいた、と言えるのではないでしょうか。そして、この世の人生の歩みを歩みきったならば、再び「天の故郷」へと帰ることができるのではないかと思います。葬儀の時に「帰天」という言葉が使われることがありますが、「天の故郷」に帰るために、この地上で様々な経験をし、信仰をもって生きていくことが大切であろうと思います。

つたない信仰者の歩みであったとしても、神さまはほめてくださいます。私たち一人一人、「天の故郷」に帰る日が与えられます。そのことを信じ、この世での生を全うしていく者でありたいと思います。

 

      2022年5月22日 復活節第6主日 平島禎子牧師


次のページ