今日の聖書の箇所は、いわゆる四千人の給食と言われている話が記されています。イエスさまは、弟子たちに、「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」(2,3節)と言われました。「かわいそう」という言葉は、原語では、「はらわた、心からの望み、あわれみの心」という名詞からきています。イエスさまは、はらわたがちぎれるような痛みをもって、群衆を憐れまれたのです。弟子たちは、「この人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」(4節)と答えました。弟子たちの答えはもっともなものです。誰がどう考えても、食物がほとんどない状態で、大勢の人を満足させることなどできません。しかし、イエスさまは、はらわたがちぎれるほどの思いをもって、群衆を憐れまれたのです。イエスさまは、弟子たちに、「パンはいくつあるか。」と問われます。すると弟子たちは、「七つあります。」と答えます。イエスさまは、弟子たちの答えを聞かれると、群衆に地面に座るように命じます。そして、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちに渡され、弟子たちは群衆に配りました。感謝していただけるような数ではないように思えても、イエスさまにとっては違ったのです。そして、パン以外にも小さな魚が少しあることがわかりました。七つのパンと少しの小さな魚が配られ、「人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。」と8節に記されています。そこにいた人たちは、平等に食事に与り、食べて満腹したのです。その光景は驚きと喜びのあふれるものであったのではないかと思います。
マザー・テレサが、何日も食事をしていないヒンズーの家族のところに、米をもって訪ねていくと、その母親は、もらった米を二等分にし、半分を隣の家へ持っていったそうです。その家はイスラム教徒の家でした。この母親には、与えられたわずかなものを、自分たちと同じように空腹で過ごしている人たちと分かち合う心があったのです。そこには宗教の壁など関係ありませんでした。わずかなものを分かち合うことによって、心が満たされるということが起こり、そして、肉体的にも満たされるという奇跡が起きたかもしれません。今日の四千人の給食にも、分かち合いの心があり、心が満たされ、そして肉体も満たされるという奇跡が起きたのではないだろうかと思わされました。
七つのパンと少しの小さな魚を神さまに感謝し、群衆に配られたイエスさまを信じ、私たちも、その配られたパンと魚を隣人と分かち合っていく者でありたいと思います。与えることによって満たされるということを信じて、小さな愛の実践をそれぞれに与えられた場においてなしていくことができるよう、祈る者でありたいと思います。
2023年9月24日 聖霊降臨節第18主日 平島禎子牧師
現在、日本の多くの教会では、新共同訳聖書が使用されています。使いやすくなった面も、もちろん多くありますが、ときどき、「ああ~」と、思ってしまうこともあります。
今日の聖書は、私の中では、「愛の帯」のところでした。それで今回も「帯」からいろいろと連想し、「連帯」が浮かび、復権の塔の「連帯と尊厳」や、四国教区の自立連帯献金などを思いめぐらせました。「きずな」はとても美しい言葉ですが、それ以上でも、それ以下でもありません。「帯」は、ひとつの物を表すことばですが、だからこそ、そこからいろいろな豊かなイメージを膨らませることができます。
今日の聖書は、コロサイの信徒への教えですが、時代を越えて、現代を生きる私たちにも当てはまる、普遍的な在り方を教えてくれます。「憐れみの心」から「寛容」まで、忙しい現代人こそ身に着けなければ、と思います。そして最後に「赦し合う」ことが挙げられています。さらに、より身に着けるべきものとして「愛」が挙げられます。逆から考えると、先に挙げられていたものは、ところどころ不十分であったとしても、赦し合い、そして最終的に愛し合うならば、それらのものはすべて覆われ、また昇華されるのかも知れません。
最後には「キリストの平和」と「キリストの言葉」が記され、「感謝」という言葉が繰り返されています。フィリピ4:7には「人知を超える神の平和」と記されています。信仰者は、人間の思い描く平和を超える、神の平和を信じて生きる者でありたいと思います。そして、人間の言葉ではなく、キリストの言葉を自らの内に豊かに持って、あらゆることに感謝しながら生きたいものです。
暗雲が重く立ち込めているような今の時代の中にあって、それでも私たちは福音の光を掲げ続けて行きたいと思います。今日の聖書にあるように、一人ひとりが神の愛に満たされ、そしてその人たちが集う教会が愛で満たれ、さらにその交わりが外の世界へと大きく広がって行く時、愛は、こだまし、連帯し、この世が愛の世界へと変えられて行くのではないかと思います。
まずは、小さなところから、自分の周りから、少しずつ愛の連帯を広げて行く歩みを、イエスさまに従って一歩ずつ進めて行く者でありたいと思います。
2023年9月17日 聖霊降臨節第17主日礼拝 笹井健匡牧師
旧約聖書のレビ記11章1節以下、申命記14章3節以下には、食物に関する規定が記されています。どちらにも、汚れた動物、清い動物、つまり、食べてはいけない動物、食べてよい動物についての規定が記されています。しかし19節で説明されているように、確かに食べ物のことを指しています。しかし、イエスさまは、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もない。」と言われています。つまり、いかなる食べ物も人を汚したりはしないのだ、と言われているのではないでしょうか。「それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」と19節に記されています。どんな食べ物でも、口から胃の中に入って、必要な栄養分以外は、外に排泄されるということが言われています。律法で、清い、汚れていると言われている食べ物も実際に体内に入れば、同じ運命をたどるのです。
「外から人の体に入るもの」は上記のとおり食べ物のことを指しています。しかし、「外から人の体に入るもの」というのは、他の人が語る言葉、また示す態度もそうなのではないのだろうか、と思わされます。「汚れている」という言葉が発せられると、その言葉は、心を突き刺す剣として、心の中に刺さり、傷を作ります。イエスさまの周りにいた人たちは、そのような傷を持つ人たちが多かったのではないかと思います。しかし、その傷をつくるような、人を傷つける言葉があなたたちを汚すのではない、「汚れている」という言葉は、決してあなたたちを汚すことはできないのだ、ということもまた、イエスさまは言われたかったのではないでしょ うか。人間を汚すものがあるとしたら、それは人の中からでてくるものである。みだらな行ない、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである、と21節に記されています。心の中から出て来るものによって、その人自身が汚れてしまうということが言われているのではないでしょうか。汚れ、ということをいうならば、その人自身の中から出て来る悪しきものがその人自身を汚すのである、というのではないかと思います。
外側にあるもの、食べ物であるとか、職業であるとか、性別であるとか、どこの国の人間であるとか、どこで生まれたとか、そういったことによって人間が汚されることはないのです。ただ、人間の心の中から出る悪い思いだけが、その人自身を汚していくのです。
人間の心の中から悪いものも出てきますが、良いものも出てきます。人間の心の中から出て来る良いものは、その人自身を高め、そして周囲を光で照り輝かせていくのではないだろうかと思わされます。私たちの心の中からどのようなものが出ているでしょうか。もし、自分の心の中から悪いものが出ていると気づいた時には、素直にそれを認め、神さまの前で真の悔い改めをなし、心の中から良いものが出て来るように祈り求めていく者でありたいと思います。
2023年9月10日 聖霊降臨節第16主日 平島禎子牧師
8月28日(月)~30日(水)まで、平島禎子牧師の実家のある福岡に帰省しました。その前日、倉敷水島教会の礼拝に出席しました。「牧会祈祷」の中で教区「お祈りカレンダー」の教会を覚えて祈りがささげられました。8月27日は児島教会でした。その後の説教の聖書個所は、ルカ14:7~14で、今日の児島教会と同じ個所でした。
今日の聖書の個所だけ読むと、前半は、宴会の所作、マナーについて教えられ、12節~の後半は、宴会の招待客について教えられているように読めます。しかし、前後の文脈(1~6節、15~24節)を合わせて読むと、もっと何かそれ以上のものが教えられているように思います。
1~6節の安息日のいやしは、6章6~11節に記されている、会堂における、安息日のいやしと同じような内容です。病気の質が違うとは言え、そこに同席していた人々にかなり大きなインパクトがあったと思われます。そこにいた人々の心の在りようは、どのようなものだったのでしょうか。
そこでイエスは、ひとつの「たとえ」を語られたのです。「招待を受けた客」は、言わば「近い」人々でした。利害が一致している人々でした。現代の政治家のパーティーを連想してしまいました。集った人々は、少しでも自分を高く売り込むことに、自己宣伝することに余念がなかったことでしょう。「上席を選ぶ」人々に、「へりくだる者」になれ、と言われたのだと思います。
12節~のところは、現代においては、しょうがい者差別に注意して、その真意を読み取る必要があります。ここでイエスが言おうとされたのは、社会的地位のある人々、金持ちたちが宴会をして楽しんでいるけれども、そこに入れない、そこから排除されている人々がいることを、そして神はそうした排除された人々をこそ招待され、宴会をされると言われたのだと思います。
15節にあるように、そこに居合わせた客の一人が、イエスの真意をくみ取り、神の国の食事に言及しています。それに対してイエスは、さらなる「たとえ」を用いて、今度は、あからさまに、神の国の食事にあずかるのは、いったいだれかということを明確に語られました。
イエスは「たとえ」で神を、神の招きを教えられました。そうすると9節10節の「招いた人」は神さまです。『』の言葉は、神さまの言葉です。10節の『』の最初には、原文(口語訳でも)では「友よ」という言葉があります。神さまは「へりくだる者」を「友」と呼ばれるのです。
神の招きを受けて、へりくだる友として、信仰の歩みを進めて行く者でありたいと思います。
2023年9月3日 聖霊降臨節第15主日礼拝 笹井健匡牧師