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 イエスさまの母となるマリアは、大工をしているヨセフと婚約していました。しかし、二人が結婚する前にマリアは聖霊によっておなかに赤ちゃんを宿しました。結婚する前に婚約者以外の男性の子どもを身ごもるということは、当時のユダヤ社会では許されないことであり、「石打ちの刑」に処せられるほどのことでした。そのことをもちろん知っていたヨセフは悩み、苦しみました。そして、マリアとの婚約を解消しようと決心しました。すると、ヨセフの夢に天使が現れ、マリアと結婚するように言われ、マリアは聖霊によって身ごもっていること、生まれてくる子どもに「イエス」と名づけることを告げられました。ヨセフは夢から覚めた後、言われたとおり、マリアと結婚し、生まれてくる子どもにイエスと名づけました。
 今日の聖書の中で「インマヌエル」という言葉が出てきます。これは「神はわれわれと共におられる」という意味であると記されています。(23節) 「われわれ」、「われら」と言い換えてもいいのですが、神さまは特別な人だけの神さまではないということ、一般の人たち、特に、貧しく、苦しみを覚えている人たちと共におられるのだということを示しているのではないかと思います。絶望の中にある人のもとへ、人生をあきらめている人のもとへ、自分を大した人間だと思っていない人のもとへ、すべての人のもとへ、「神さまはあなたがたと共におられるのですよ。」というのが、イエスさまのお誕生のメッセージであると思います。
 先週一週間は、2人の偉大な牧師が召天されました。おひとりは、児島教会の2代目の牧師で、児島教会を18年の長きにわたって牧されました。親しかった教会員の悲しみは深いものでした。私自身も生前にお訪ねしなかったという悔いの念を持ち、悲しみを持ちました。亡くなられた方の姿、形は見えず、触れることもかなわくなりますが、その魂は天へと召され、天上にて神さまとまみえ、やすらぎの時を得つつも、地上にある私たちを見守ってくださっていると信じます。
 神さまは、私たち一人一人と共にいてくださいます。神さまは私たちを見捨てず、私たちと共にいて、励まし、慰めてくださり、私たちにとって、一番いいところへと導いてくださいます。
 今日が2018年最後の礼拝となりました。神さまは今年も私たちと共にいて、その歩みを導いてくださいました。「神われらと共に」という言葉を自らの内側で叫び、来たる新しい年2019年、私たち、一人一人が神さまと共に歩んでいくのだという自覚を強くするものでありたいと思います。

2018年12月30日 降誕節第1主日礼拝 平島禎子牧師

 クリスマスおめでとうございます!今年も素晴らしい四部合唱の賛美をすることができました。本来、これ以上言葉は要りません。「メリークリスマス!」と言って、一言お祈りして、もうそれで十分だと思います。
 救い主イエス・キリストの誕生を告げられた羊飼いたちも、天の大合唱を聞いて、心がいっぱいだったと思います。おそらく、それまでのつらく厳しい「闇」と言っていい人生が、突然、明るい光に照らされ、喜びに溢れたのだと思います。それで彼らは天使の告げてくれたことを見るために、ベツレヘムへと向かいます。そこで御告げの通り、赤ちゃんイエスに会いまみえるのです。彼らは驚きと喜びのあまり、そこにいた人々に語り伝えますが、聞いた人びとは、おそらく、あの羊飼いどもの、たわごと、夢想だと思ったに違いありません。マリアだけは心に留めおきました。
 羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ」と言ってやって来ましたが、帰りは、「ああ、ベツレヘムよ」という思いで帰って行ったのではないかと思います。
彼らの心にはずっと天の大合唱が鳴り響いていたのだと思います。
 あえて地上で、私たちが知っている中で、少しでも近いものを挙げるとするならばベートーヴェンの第9「喜びの歌」です。あの歓喜に満ちた大合唱、それの天上バージョンが、この時羊飼いたちが野宿中に聞いたものなのです。
 前任地の教会の一人の姉妹は、若い時、オルガンの伴奏にのって聞こえてくる讃美歌に導かれ、教会へと連なることになったことを話して下さいました。賛美することは、それを聞く人の心を、魂を揺さぶり、真の道へと人を導く力があるのです。
 今、日本では、いや世界中で、教会から遠ざかる人々が増えていますが、その「闇」と言える現実を打ち破る力を賛美の歌は持っています。
 羊飼いたちが赤ちゃんイエスに出会い、賛美の歌を歌いながら帰って行ったように、私たちも、今年もそれぞれの中に、そしてこの教会の中に救い主イエスをお迎えし、そこから湧き出る聖なる喜びを、賛美の歌にして、声高らかに歌いながらこのクリスマスのときを過ごして行きたいと思います。

2018年12月23日 クリスマス礼拝 笹井健匡牧師

 今日の聖書には、洗礼者ヨハネの父となる祭司ザカリアと母となるエリサベトについて記されています。「二人とも神の前に正しい人で、主の掟を守り、非の打ちどころがなかった。」と6節に記されています。主の前に正しく生きて来た祭司と妻でありました。しかし、そんな二人は人間の力ではどうしようもない悩みを持っていました。二人には子どもがいなかったのです。そのことが二人の心の闇としてあったのではないかと思います。
 そんな二人に驚くべき出来事が起こりました。ザカリアがくじによって、神殿の聖所で香をたくことになったのです。祭司の数が非常に多いので、一度その役割を果したら、二度とくじの機会は与えられなかったそうです。ザカリアは一生に一度という重大な神殿奉仕をなすことになったのです。
 ザカリアが聖所で務めをなしていると、主の天使が現れ、香壇の石の上に立ったのです。そして、天使はザカリアに恐れることはないと言って、ザカリアの祈りが聞き入れられ、エリサベトは男の子を産む、その名をヨハネと名づけなさい、と語ったのです。しかし、ザカリアはそのことを信じることができずに、「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか。」と「しるし」を求めました。天使の言葉を信じることができなかったザカリアに与えられたしるしは、「子どもが生まれるまで口がきけなくなる」というものでした。ザカリアは神殿での奉仕を終えると、自分の住んでいる村へと帰りました。ザカリアがこのことを妻のエリサベトに伝えたかどうかはわかりません。しかし、妻のエリサベトは身をもって、その出来事を知ることができました。5ヶ月間、彼女は思いめぐらし、祈り、自分の身に起きたことを受け入れ、喜びの声をあげることができました。やはり、子どもができないということは、彼女にとって辛いことであり、立派な生活をしていて、人々に褒めそやされても、心の闇のようなものとして、存在していたのだろうと思います。
 今日の聖書の個所は、神の前に正しく生きた二人に恵みが示された物語です。神さまは、神の前に正しく、神に祈り求める者の声を無視されません。そして、一番いい時を選ばれ、願いをかなえて下さるのだろうと思います。神さまは、私たちに恵みを示してくださいます。私たちはその神の恵みが実現することを信じ、心を強くされ、神を喜びたたえ、イエスさまの誕生の時、クリスマスを待ち望んでいく者でありたいと思います。

2018年12月16日 アドベントⅢ(待降節第3、降誕前第2主日)平島禎子牧師

 アドベント第2主日を迎えました。みなさんは、この一週どのように過ごされたでしょうか。
 先週に引き続きイザヤ書を取り上げました。アドベントの時、イザヤ書がよく取り上げられますが、特に、7章、9章、11章はひとつのセットのようにも読める個所です。アドベントの3回の日曜日の礼拝で取り上げたり、アドベント祈祷会で取り上げることも多い個所です。
 今日の聖書は主イエスの誕生のユニークな表現として、後に、カトリック教会で多くの作品に描かれるようになったようです。
 エッサイが最初に言及されるのは、ルツ記4章17節、22節です。マタイとルカ福音書の系図にもありますが、エッサイはルツの孫ということになります。
その株から、つまりエッサイの子である、あのダビデの子孫からまことの「王」が誕生する、とイザヤは預言したのです。背景には南王国ユダの危機があったと思われます。
 10章の33節、34節を見るとそびえ立つ高い木、レバノン杉の大木でさえ、切り倒される、とあります。しかし、切り倒されたように見える切り株から、新しい芽が萌えいで、その根から若枝、つまり新しい王が誕生する、というのです。
神は決して自分たちを見捨てられず、必ずや救いの業を起こしてくださる、という固い信仰がここにはあるように思います。表面上は「無」に見えても、地下では、「根」は生き続け、やがて時が来たら、時が満ちたら「救い主」が誕生するという絶対にあきらめない信仰なのです。
 2節に主の霊がいろいろと記されています。特に今回はふたつの言葉に心が留まりました。ひとつは「識別」の霊です。もうひとつは「思慮」の霊です。この「思慮」は口語訳では「深慮」です。物事を信仰をもって識別し、そして、深い配慮ができる、イエスさまはそういう方なのです。
 私たちは、つい目先のことに右往左往する弱さを持っています。特に私自身は、せっかち、というか「気がせく」性格を持っています。
 「待降節」という名の通り、私たちは神さまが世に送ってくださるイエスさまを、信仰をもって待たなければいけません。クリスマスまでの時、いにしえの預言者たちが気の遠くなるような年月を「根」を信じて待ったように、私たちも神さまの最高のプレゼントを待ち望みつつ歩みましょう。

2018年12月9日 アドベントⅡ(待降節第2、降誕前第3主日)礼拝
                            笹井健匡牧師

 アドベントの時期になりました。私たちはイエスさまの誕生を待ち望むのですが、それは私たちの生きている世界には闇があり、その闇を照らすためにイエスさまが地上に来られるのだ、ということを覚えておきたいと思います。
 今日の聖書のイザヤの預言は、イエスさまがお生まれになる700年前になされたものです。マタイによる福音書4章12節以下を見ますと、イエスさまがガリラヤで伝道を始められた時のことが記されていますが、そこにこのイザヤの預言が記されています。アッシリアに占領されたゼブルンの地、ナフタリの地はガリラヤ地方に含まれる地でした。しかし、そのゼブルン、ナフタリのような「闇の中を歩む民、死の陰に住む者たち」に、光が与えられるのだと預言者イザヤは言うのです。そして、それらの人たちに、ミディアンの日のように「深い喜びと大きな楽しみ」を神が与えてくださるのだというのです。ミディアンの日とは紀元前1200年から1050年頃のイスラエルの歴史を記した士師記6章に記されている、ギデオンが侵入してきたミディアン人に勝利した日です。そして、それからしばらく攻めてくるものはなかったという、イスラエルの歴史にとって、「勝利の記憶」となった出来事です。そして、神はそれ以上のことをしてくださるという強い信仰を持ってイザヤは預言をなしたのです。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」と述べるのです。そして「その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」(5節)と記されています。イザヤはひとりのみどりごが与えられ、その方が公平と正義が行なわれる永遠の平和の時へと導かれるというのです。そして、これらのことをされるのは「万軍の主の熱意」によってであると、最後に記されています。私たちの信じる神は、熱意を持った、熱い神なのです。私たち人間の歴史に関わられ、私たちのことに心砕かれ、私たちに力を与えてくださる熱情の神なのです。
 「幻なき民は滅ぶ」と言いますが、これは、私たちの教会にも言えるのではないかと思います。現状を見ると、負の部分が多いようにおもわれますが、それでも「幻」を失わず、光として産まれられたイエスさまをお迎えし、そのイエスさまに従っていくなら、必ず、光は闇に打ち勝つと思います。闇の中に光をもたらされるために、イエスさまはお産まれになられます。そのイエスさまの誕生を待ち望み、静かな喜びをもって、クリスマス礼拝を待ち望みたいと思います。
 
2018年12月2日 アドベントⅠ(待降節第1、降誕前第4主日) 平島禎子牧師