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 「信じる」という合唱曲があります。この詞は難解で、私には理解できにくいものでしたが、とても簡単にいうと、自分を信じる、他人を信じる、世界を信じるということが歌われています。自分のことを本当に知っているのは自分自身であり、その本当の自分を信じること、他人の美しい心に触れた時、その人を信じることができるということ、自然の美しさを知った時、世界を信じることができる、というようなことが歌われているように思わされました。私たちは、この三つを信じるということに加えて、もっとも先に来る方、神さまを信じる者であります。私たちは、神を信じ、自分を信じ、他人を信じ、世界を信じて生きていく者です。神さまを「信じる」というのはどういうことなのでしょうか。

 イエスさまが山上で変容され(マルコ9章2~13節)、山を下りてくると弟子たちと律法学者たちが議論をしていました。「霊に取りつかれて、ものが言えず、霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒す」(17、18節)のだということを子どもの父親が言いました。弟子たちはその霊を追い出すことができず、そのことについて律法学者たちと論争をしていたのです。イエスさまは、弟子たちの不信仰を嘆かれます。そして、その子どもを自分のところに連れて来させました。父親は、「もしおできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」とイエスさまに言いました。イエスさまはその懇願に対して、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と言われました。すると父親は、「信じます。信仰のない私をお助けください。」と言いました。この父親は、「信じます。」と言った後ですぐに「信仰のないわたし」と言っています。矛盾した言葉のように思わされますが、この父親が、「信じる」と言ったことは真実な叫びであったと思います。そして「不信仰」ということもそれまでそうであり、イエスさまに懇願している時もそのような状態であったかもしれません。その「不信仰な私」を助けてください、と子どもの癒しを求めると共に、自分の不信仰をも助けてください、とこの父親は願ったのです。そして、子どもはイエスさまによって癒されました。

神さまを「信じる」ことなくしては、困難なことを乗り切ることはできません。そして、神さまを「信じる」ために欠かせないのは、「祈り」です。熱心に祈ることなくして、信仰は強められないのです。

 「信じる」ということは、ありのままの自分をごまかさずに「信じる」ところから始まるように思います。私が本当に神さまを信じているかどうかということを一番よく知っているのは自分です。その気持ちをごまかすことなく、また、開き直ることなく、「不信仰なわたしをお助けください。」ということが大切なのではないかと思います。

「信じる」ということを「祈り」に支えられながらなしていく、「信じる」心が奇跡を起こすということを心から「信じる」者でありたいと思います。

       2022年7月31日 聖霊降臨節第9主日 平島禎子牧師


映画「破戒」を見ました。最初から最後まで涙が止まりませんでした。新しい「丑松」像に、心からエールを送りたいと思いました。

 人類の歴史に、その進歩に、欠かせないものは、たくさんあります。私はその一つは「勇気」だと確信しました。はじめに「フグ」を食べた人がいました。火を使った人がいました。そして、神を信じて旅を続けた人がいました。奴隷の地を脱出した人がいました。そして命を懸けて、真の救いを説いた人がいました。多くの人々の勇気によって、今日があるのだと思います。

 今日の聖書は、ヨハネによる福音書におけるイエスさまの長い長い決別説教(15・16章)の最後の言葉です。この後、17章の祈りを経て、イエスさまは逮捕されます。

 もし、私が今、決別説教をするとしたら、やはり同じように、苦難の中にあっても、主にあって、勇気を出しましょう!と言うと思います。もちろん私は世に勝っていませんし、平和を与えることもできません。しかし、そんな私でも、やはり生まれてきて、こうして生かされている以上、人間の最大の力である、勇気を出しましょう、を最後の言葉にしたいと思います。

 丑松は、父の戒め、「かくせ、絶対に出自を言うな」の言葉に、苦悩しながら生きて来ました。そんな人生はもうやめにしましょう。破戒は丑松の専売特許ではなく、先に述べた、多くの人類の未来を切り開いて来た人々に共通するものだと思います。

 イエスさまは、自らがいなくなってから弟子たちがどれほど大変な人生を歩むかをよくよくご存知でした。多くの者は殉教の死をとげます。苦しみや悲しみをいやというほど経験しなければなりません。しかし、たとえどんな苦難が待ち受けていようとも、死にさえ打ち勝たれた主イエスが共に居てくださるのです。そのことによって得られる心の平和は、何ものにもまして、最強なのです。それはキリスト教2000年の歴史が証明している通りです。

 私たちも今、大変な苦難の中にいます。しかしそれでも私たちにはたくさんのものが与えられています。教会、住むところ、食べる物、そして何より信仰の友が、祈り合う仲間が与えられているのです。もはや、何をか恐れん、です。

 大丈夫、私がいる。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(14:1)共に居て下さる、友なるイエスを信じ、勇気を出してこの時を生き抜いて行きたいと思います。

     2022年7月24日 聖霊降臨節第8主日礼拝 笹井健匡牧師


 祈るということは、キリスト教信仰を持つ者にとって、なすべき務めであり、喜びです。しかし、日常生活を送る中で、神さまへのお祈りを忘れてしまったと後悔することもあるかもしれません。しかし、祈ろうと思えばどこででもいつでも祈ることができます。家事をしている合間にも、仕事をしていて一息ついた時にも祈ることはできるのではないでしょうか。祈ることによって神さまと結ばれていくことによって、信仰は深められていくのではないでしょうか。

祈るときには「偽善者」のようであってはならない、とイエスさまは言われます。「偽善者」たち(おそらくファリサイ派や宗教の専門家たち)は、人目につくところで祈りたがるのです。そして人から見られることだけが関心で、神さまの目は全く問題にならなくなっているのです。しかし、自分を中心にした神への祈りは、聞き入れられないのです。

 イエスさまは、弟子たちにはそうであってはならない、隠れたところで祈りなさい、と言われました。隠れた場所にいて、そこで神さまに心を注ぎ出すように祈るならば、神さまは必ず報いてくださるのです。また、神の名を羅列した「くどくど」とした祈りをイエスさまは否定されます。人前でみせびらかすような祈り、くどくどとしたさも荘厳であるかのような祈りをイエスさまは否定されるのです。そして、そのような祈りではなく、次のように祈りなさい、と言われるのです。これは「主の祈り」の原型といえるものです。

 神さまを崇め、神さまの国が来ること、神さまの御心が天においても地においても行なわれますようにと祈った後、一番に来たのが「必要な糧を今日与えてください」という祈りでした。当時の貧しい人たちは、その日に食べる物もない状態でした。現代においても、貧困と飢餓の問題があります。それらの人たちのことを覚えて、この箇所を祈ることは大事ではないかと思います。次に、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」と記されています。神から罪を赦されることと自分が人を赦すことが不可分であることが意味されていると思います。そして、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」という祈りが最後に記されています。誘惑との闘いとは大変なものです。それだからこそ、誘惑に勝たせてください、というのではなく、謙遜に誘惑に遭わせないでください、という一見弱く思われる祈りが大事なのではないかと思います。また、悪い者とは、一見善人に見えますが、腹黒く、巧妙に私たちを堕落させていくような人間のことであろうと思います。そのような人に勝つのではなく、そのような人に出会わないように助けてください、と祈ることも大切なことなのだろうと思います。

 「祈り」は貧しくても、神さまの前にへりくだった心をもって、隠れたところで、素朴な祈りを捧げるならば、神さまは必ず聞いてくださいます。日々の生活の中で、神さまに喜ばれる祈りをなしていく者でありたいと思います。

       2022年7月17日 聖霊降臨節第7主日 平島禎子牧師


 8日(金)安部元首相が亡くなられました。政治信条は真反対でしたが、しかしあのような最後はやはり、大変ショックであり、今は魂の平安とご遺族の上に慰めを祈るばかりです。

今日、7月第2主日は、教団の「部落解放祈りの日」です。また今年は水平社創立百周年の年でもあります。水平社宣言の中にある「精神」と、キリスト教信仰の共通点について見てみたいと思います。

 私たちが信仰の友のことを表現するとき、「敬愛する」という言い方をします。尊敬し、愛するという意味です。今日の聖書には、「へりくだり」と「尊敬」が勧められているように思います。そしてそれは、イエスさまがそうだったからです。

 私たちは、信仰をもってイエスさまを救い主として見ていますので、どうしても「十字架」に集中します。しかし一歩引いて考えると、イエスさまの時代、十字架で殺された「リーダー」たちは他にもいたのです。大きな違いは十字架そのものよりも、そこに至る「歩み」にこそありました。パウロが言っているように、最も高きから、最も低きへと歩まれたのがイエスさまでした。偉そうに「我こそは!」と叫んだ他のリーダーたちとは違い、へりくだり、僕として最後まで歩まれたのがイエスさまです。貧しい大工として歩まれ、大変な宣教活動をされ、多くの人を癒し、そして馬ではなく子ロバに乗ってエルサレムに入り、最後の晩餐では弟子の足を洗われました。

仕えられるためではなく、仕えるために来られたイエスさまは、その身を低くすることにより、相手を高く上げられたのです。「あなたの信仰があなたを救った。」という言葉にも相手への尊敬が込められているように思います。

 水平社宣言の最初の方には、「人間を尊敬することによって」差別からの解放を実現しようとする一文があります。踏みつけられ、辱められてきた被差別部落の人々を、サバイバーとして、人として尊敬する、きっとイエスさまならそう言われるのではないかと思います。

敬愛する姉妹兄弟たちのことを、これからも「自分よりも優れた者」と思い、信仰の道を歩んで行きたいと思います。「敬愛」こそ、クリスチャンの精神の、一丁目一番地であることを忘れずに。

 

     2022年7月10日 聖霊降臨節第6主日礼拝 笹井健匡牧師


 今日の聖書に記されている二つの話は、それぞれに「宣教」ということについて考えさせられる箇所です。イエスさまは故郷のナザレで宣教された時、人々はその言葉と業がすばらしいものであると感じながらも、イエスさまは自分たちの知っているイエスさまでしかない、という思いに遮られて、イエスさまを信じることができなかったのです。しかし、後にイエスさまの母マリアと兄弟たちはイエスさまを信じるようになりました。(使徒言行録1章14節) ナザレの人たちの中にもそのような人たちがいたかもしれません。宣教によって福音の種は思いもしないところで育っていくものであるのかもしれません。現在の日本において、家族に伝道するということは大変難しいことであると思いますが、いつ福音の種が芽吹くのかは誰にもわかりません。家族や近所の人たちが信仰を持つように祈りつつ宣教の業をなしていくことが大事であろうと思います。

 もう一つは、イエスさまが弟子たちを二人一組にして派遣された話です。二人というのは、昔の律法に、犯罪者を処刑するには、二人、ないし三人の証人が必要である(申命記17章6節、19章15節)と記されています。そのことも影響しているかもしれませんが、マタイによる福音書18章20節に「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」というイエスさまの言葉が記されています。二人で遣わされることは、そこにイエスさまも共にいてくださるということではないでしょうか。そして、弟子たちの旅支度として許されたものは、杖と下着一枚と履物だけでした。本当に何もない貧しい姿で宣教の旅に出よ、とイエスさまは言われるのです。そして、「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。」と言われます。弟子たちは何一つ持たない貧しい者でありますが、迎え入れられた家において、食事等が保証され、生活に困ることはなかったのです。その家を拠点にして、宣教活動をするように、とイエスさまは言われるのです。それまで知らなかった土地にとどまり続けることは大変なことです。しかし、招き入れてくれた家の人との信頼関係ができ、同じ信仰をもつ神の家族になること、そこから 「宣教」へと押し出されていくことが大切なのであろうと思います。そして、実際にイエスの弟子たちは宣教し、多くの悪霊を追い出し、病を癒す働きをなすことができたのです。

 宣教するというのは、今の時代、日本においてとても難しいことです。クリスチャンとして生きていくのがやっとであるかもしれません。しかし神の家族である教会に属する者として、そこから派遣され、外へ押し出されていくと、どのような形になるかはわからなくても宣教をなしていくということが大切なのではないかと思います。どのように小さくても「宣教する教会」となれるよう、祈りつつ歩む者でありたいと思います。

        2022年7月3日 聖霊降臨節第5主日 平島禎子牧師