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「先頭に立つイエス」 マルコによる福音書10章32~34節

今日は2月の最後の日曜日で、また降誕節も最後になります。今週の水曜日、3月1日は灰の水曜日で、4月15日までレント(受難節)となります。わたしたちの児島教会では、この克己のときを覚えて、それぞれビンに克己献金をします。そしてそれをイースターにささげます。この時期は、主イエスの受難と復活を覚える大切な時期です。

わたしたちクリスチャンはふだん、神さまのことをイエスさまによって大変身近に感じているのだと思います。ある人にとっては伴走してくださる友なるイエス、また他の人にとっては、苦しい時、おんぶしてくださる「足跡」の詩のイエス、また違う人にとっては後ろから支えてくださる「親」のようなイエス、と人それぞれ、またTPOによっても変わります。

今日の聖書は、エルサレムを前にして、3度目の受難予告をされたときのイエスさまの様子を伝えてくれています。今日の記述から、逆に普段は、集団の中でおそらく真中から後ろの方で、みんなを包むように見守っておられたイエスさまの姿が浮かびます。しかしこと、ここにいたって、いざ鎌倉という、この場面でイエスさまは先頭にたち、みんなを引率するようにエルサレムへと向かわれました。

いちばんしんどいとき、いちばん大変な立ち位置に立ち、わたしたちを導かれるイエスさま、このイエスさまこそわたしたちの希望です。

世の荒波がどんなに迫り来ようとも、悲しみのどん底にあえごうとも、そんな時こそ、十字架の前に、先頭に立って歩みゆかれるイエスの背中をしっかりと見つめて、自らも、小さいながらも十字架を負って、従いゆきたいと思います。死に勝利された主こそ、われらの希望です。恐れを振り捨て、主に従い、このレントの歩みを最後まで歩みぬきたいと思います。

2017年2月26日 降誕節第10主日礼拝 笹井健匡牧師

「ついて来なさい」 マルコによる福音書1章16~20節

キリスト者としての歩みは新興宗教のようにマニュアルがあるわけではありません。信仰者として一人一人が神から召しを受けて、自分でなければできない歩みをなしていかなければなりません。創世記12章1節から4節に記されていますアブラハムの召命のように、神さまに祝福をうけるものの、行く先を知らないで旅立つような人生の歩みをなしていかなければなりません。私たちは日々このような生活をするとこのような世界にたどりつくのですよ、というような教えが書きなどなしに、自分にだけ与えられている信仰の道を行く先を知らずして歩み出していかなければならないのです。

しかし、新約の時代を知っている私たちは人生のどこかで、イエスから「ついて来なさい」という言葉をかけられ、イエスに従う歩みをなしてきたことであろうと思います。私を例にすると、これまで世間体を気にし、みんなと一緒じゃなきゃだめだという思いから、自分個人の在り方を見つめ、イエスにあって自分らしく生きようとする在り方を求める歩みをなすことでした。クリスチャンになり、牧師にまでなるということは、この世の一般の在り方とは異なるものであると思いますが、それがイエスに従う道であると思えば、気になることは何もありません。ただ、私があまりにも世俗的すぎるので、牧師にふさわしくないのかなーという疑問はいつも心にあります。イエスについて行くということは、これまでの古い日常の生き方から新しい生き方、新しい行いへとイエスにあって変えられることではないかと思います。具体的な行動、具体的な始めの一歩を踏み出すことが、18節の「すぐに網をすてて従った」の「すぐに」という言葉にこめられているのではないかと思います。

イエスの後について行くということは、イエスが生きられたようにイエスの背中を見ながら生きていくことです。イエスはガリラヤを愛され、ガリラヤで宣教活動を始められました。私たちにとってのガリラヤとはどこでしょうか。それは、教会の建てられた地である児島であります。(どの教会も建てられた地がガリラヤであると思います。)教会の建てられている地を愛し、私たちの住んでいる地を愛し、一人でも多くの人が救われるように働いて行くというのがイエスに従うということではないかと思います。

約2000年前の昔、ガリラヤで漁師たちがその生活のただ中でイエスから「ついて来なさい」と呼びかけられ、すぐにイエスに従ったように、私たちも教会の建てられている地、自分たちの住んでいる地を愛し、イエスに従う者として生きていく、そのような信仰をもって日常を歩む者でありたいと思います。

2017年2月19日 降誕節第9主日 平島禎子牧師

「イエスの言葉を信じる」 ヨハネによる福音書4章46~54節

わたしたち人間は、誕生したときには、最も身近な存在、多くの場合は親ですが、その言葉を信じて成長していきます。しかし、次第に、ものごころがつき、反抗期を経て、信じられるものが不確定になっていきます。そして紆余曲折の結果、何かにたどり着くのかも知れません。

わたしたちクリスチャンにとって、それは聖書に記されたイエスさまの言葉ではないかと思います。イエスさまを信じて生きるようになる、その言葉を信じて成長していく、それはいわば第2の誕生と言えます。最高に確かなものをいただいたわたしたちは、安心して、心の平安を与えられて、人生の旅を最後まで歩むことができるのです。

今日の聖書の真ん中あたりには、「しるし」「不思議な業」を見なければ、つまり証拠がなければ信じることができない、わたしたちの「弱さ」が指摘されています。最終的に、この「王の役人」は、息子の病気が良くなって信じたわけですが、しかしそれはイエスさまが「あなたの息子は生きる」という言葉をこの人にかけられた時、すなわちイエスさまが言葉を発せられた時に、病の癒しがなされたことを知ってです。この人は、いまだ結果を見ていない状態で、ただイエスさまの言葉を信じて帰って行ったのです。

わたしたちの信仰生活も、同じような面があるかもしれません。イエスさまから招かれ、信じる者となったわたしたちは、まだ結果は分かりませんが、イエスさまの言われた言葉を信じて、これまで歩んできたように、これからも歩んで行くのです。

しかしひとつだけ確かなことがあります。それは今こうして児島教会に集えるのは信仰の先達たちが、このところでイエスさまを信じ、結果を見ずしてただ、イエスさまが言われるから、その言葉を信じて、信仰の歩みを全うされた、その延長上にわたしたちは居るのです。そういう意味では、わたしたちは「結果」を知っているし、その事実を享受しています。

わたしたちもイエスの言葉を信じて、前に向かって手を伸ばしながら、地上での信仰の歩みを一歩ずつ共にすすめて行く者でありたいと思います。

2017年2月12日 降誕節第8主日礼拝 笹井健匡牧師

「神の家族」 マルコによる福音書3章31~35節

現代は、家族の在り方も多様化し、「これが家族!」というようなものは、あまりありません。私自身、職業柄、これまで仕えてきた教会が、ほんとの家族のような感覚を持っています。それは、血縁の家族が、クリスチャンではなので、余計に強い気がします。

今から2000年前の、イエスさまの時代、もっと家族が絶対的な存在の時代でした。そんな世の中にあって、イエスさまは、自分を取り押さえに来た、身内の人たちよりも、自分のところに集まって来ていた大勢の群衆をさして、自分の家族であると言われました。

地縁、血縁を越えた家族の姿がここにあります。そしてこれはやがて誕生する教会の雛形になっていったように思います。初代教会が目指したのは、生前の、イエスさまが行っておられたことと連続していたと私は思っています。

しかし、よく考えてみますと、「神の御心を行う人」こそがイエスさまの家族だと言われていますが、ここに集まっている人たちは、今はまだイエスさまのところに来ているだけのように思います。もちろん、後には、イエスさまのことを宣べ伝え、愛の業を成していく者へとなっていくと思いますが。

しかし、よく考えてみると、今の私たち、日本のクリスチャンの姿とも似ているのではないでしょうか。教会に来るだけで、精一杯、私自身もそうでした。教会に来るのが困難な人もいるわけです。おそらく、このイエスさまを取り囲んでいた大勢の群衆も、そんな人々だったと思います。何もできない、しかしとにかくイエスさまを目指して、イエスさまのところへ来たい、そんな人たちが大勢いて、やがて教会の、神の家族になっていったのだと思います。

さまざまな不安が取り巻く時代の中で、私たちはそれでもイエスさまが示してくださった人間の在り方を、あきらめずに目指していく者でありたいと思います。そして尊い対価をはらって、イエスさまが救いの道を開き、この地上に教会を誕生させてくださったことを心から感謝し、いよいよ神の家族として成長していく者でありたいと思います。

2017年2月5日 降誕節第7主日礼拝 笹井健匡牧師

「信仰者の希望」 コロサイの信徒への手紙3章12~14節

今、歌いました讃美歌は、明後日納骨をします故鴨井シヅエ姉のお好きだった讃美歌です。武公子牧師が電話で歌ってくださいました。教会に集うことがいかに大きな恵みであり、生きていく糧となっているかということが謳われています。

先週の平島禎子牧師の説教にありましたように、「選民思想」は、非常に危険な面を持っています。わたしたちも神さまから選ばれた者ですが、その在り方、目指す方向を今日の聖書は教えてくれています。身に着けるべき5つのものの真ん中にあるのが「謙遜」です。神さまに選ばれているからこそ、謙遜になっていく、それがクリスチャンの信仰の在り方です。

教会は、人間の集まりです。ひとりひとりは欠けの多い、土の器です。しかし、いやだからこそ、互に赦し合うことが大切であると言われています。相手の欠点を責めることは簡単です。しかし私たちの信じるイエスさまは、十字架にあげられつつも、敵を赦された方です。であるなら、せめて教会の姉妹兄弟の間では赦し合うことを、まず第1の目標にしたいものです。そして、それができたならば、教会の外に広げていき、最終的には、敵をも愛することができる信仰者となっていきたいと思います。

危険な「選民思想」の人たちの希望は、「力」、つまり信じている「神」のパワーにありますが、私たちクリスチャンの希望は、「愛」にあります。イエスさまによって示された神の愛こそ、私たちの、信仰者の依るべき希望なのです。

現代は、ほんとに何が起こるかだれも分からない時代です。大きな世のうねりの中で、おぼれそうになる者ですが、神さまから愛されている者として、愛こそが、私たち人間の、人類のあるべき姿、生きるべき道であることを証していく者でありたいと思います。

「信仰」者の「希望」は「愛」であることを心に刻んで、信仰の歩みを互いに助け合いながら、謙遜にすすめていく者でありたいと思います。

2017年1月29日 降誕節第6主日礼拝 笹井健匡牧師