病気の子どもをイエスさまの弟子は癒せず、そのことで、律法学者たちと議論をし、その周りに大勢の群衆がいました。そこへ、イエスさまが3人の弟子たちとともに山から下りて来られました。イエスさまは議論をしている理由を病気の子どもの父親から聞き、「なんと信仰のない時代なのか。いつまで、あなたがたに我慢をしなければならないのか。」と嘆かれました。そして、父親に病気の子どもを連れてくるようにと言われました。父親は、「おできになるのなら、私どもを憐れんでお助けください。」と懇願しました。イエスさまは、「『できれば』というか。信じる者にはなんでもできる。」と言われました。すると父親は、「信じます。信仰のない私をお助けください。」とさけびました。父親は信仰と共に自分の不信仰を告白しています。この父親は自分の信仰が完全でないことを知り、信仰のない自分を助けて下さい、と叫びました。イエスさまは、その父親の正真正銘の姿を見て、悪霊との対決に勝利し、子どもを癒されました。
「信じるということ」は、自分が信じていると思うだけでは、思い込みの信仰になってしまいます。自分の持っていると思っている神さまへの信仰も実は、神さまがイエスさまを通して、支え、守り、導いてくださることがなければ、本当には、自分の中に保つことはできないのです。
子どもの癒しがなされた後、弟子たちはなぜ自分たちにはできなかったのかをイエスさまに訊きます。イエスさまは、「この種のものは祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」と答えられました。
「信じるということ」と「祈り」は切り離すことはできません。祈ることはたやすいように思えますが、結構骨が折れる仕事です。「信じます」と言えば強い信仰があるというわけではありません。日々、祈りの時を持ち、神さまへの感謝、自分の願いを述べるわけですが、すべてが神さまに受け入れられるわけではありません。祈りの課題は日々続けて祈っていくことが大事なのであろうと思います。
私たち一人一人、キリスト教が浸透していない国、地方、地域にあって、また、不安な社会情勢の中にあって、諦めず神さまを信じ切るということをなしていくものでありたいと思います。
2018年11月18日 降誕前第6主日 平島禎子牧師
「信じるということ」は、自分が信じていると思うだけでは、思い込みの信仰になってしまいます。自分の持っていると思っている神さまへの信仰も実は、神さまがイエスさまを通して、支え、守り、導いてくださることがなければ、本当には、自分の中に保つことはできないのです。
子どもの癒しがなされた後、弟子たちはなぜ自分たちにはできなかったのかをイエスさまに訊きます。イエスさまは、「この種のものは祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」と答えられました。
「信じるということ」と「祈り」は切り離すことはできません。祈ることはたやすいように思えますが、結構骨が折れる仕事です。「信じます」と言えば強い信仰があるというわけではありません。日々、祈りの時を持ち、神さまへの感謝、自分の願いを述べるわけですが、すべてが神さまに受け入れられるわけではありません。祈りの課題は日々続けて祈っていくことが大事なのであろうと思います。
私たち一人一人、キリスト教が浸透していない国、地方、地域にあって、また、不安な社会情勢の中にあって、諦めず神さまを信じ切るということをなしていくものでありたいと思います。
2018年11月18日 降誕前第6主日 平島禎子牧師
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今日の聖書は、「笛吹けど踊らず」ということわざとしても有名な箇所です。しかし、よくよく考えてみると、この笛を吹いている子どもたちはだれのことを指しているのでしょうか。
もともと私は長い間バプテスマのヨハネとイエスさまのことだと思っていました。今もその思いはありますが、今回もうひとつの可能性を思わせられました。ファリサイ派の律法学者、祭司、長老たちという民の指導者たちのことを言われているように思えたのです。
イエスさまの時代、民衆の心はすでに彼らから離れようとしていたのではないかと思います。宗教がその本質を忘れ、律法の解釈と儀式にのみ重点を置いていたので、人々の心に彼らの言葉は届かなかったのではないかと思います。人々は真の救いを必要としていました。だから彼らの「教え」「言葉」は虚しく響き、とても応答できるものではなかったのだと思います。
そこにまず、ヨハネが荒れ野に現れました。ユダヤ全土から悔い改めの洗礼を受けるため人々が集まって来ました。ヨハネは、メシアの前に現れるエリヤだったと14節に明言されています。先駆者としてメシア登場の道備えをするためでした。そして、イエスさまが登場されました。
民の指導者たちは、自分達の非を認め、改革することもなく、ただ、ヨハネとイエスさまの悪口を言ったのです。荒れ野で禁欲的な生活を送っていたヨハネとは違い、イエスさまは自ら「罪人」「徴税人」はじめ、当時の社会から疎外されていた人々のところに行かれました。「仲間」という批判は、神さまから見れば、誉め言葉です。それくらいイエスさまという方は、社会の不条理に苦しむ人々に寄り添い、共に歩まれたのです。
二つの解釈のどちらをとっても同じく重要なのは、私たちが信じるイエスさまは何と呼びかけておられるのかということです。復活の主がどこにおられ、そして私たちに何を語りかけておられるのか、そして私たちはどう応えて行くのかが問われているのだと思います。
クリスマスを見据えながら、今、私たちにささやかれているイエスさまの小さな声に耳を傾け、心を開いて、そして自分なりの応答の仕方を考えながら、この時期を歩んで行きたいと思います。
2018年11月11日 降誕前第7主日 笹井健匡牧師
もともと私は長い間バプテスマのヨハネとイエスさまのことだと思っていました。今もその思いはありますが、今回もうひとつの可能性を思わせられました。ファリサイ派の律法学者、祭司、長老たちという民の指導者たちのことを言われているように思えたのです。
イエスさまの時代、民衆の心はすでに彼らから離れようとしていたのではないかと思います。宗教がその本質を忘れ、律法の解釈と儀式にのみ重点を置いていたので、人々の心に彼らの言葉は届かなかったのではないかと思います。人々は真の救いを必要としていました。だから彼らの「教え」「言葉」は虚しく響き、とても応答できるものではなかったのだと思います。
そこにまず、ヨハネが荒れ野に現れました。ユダヤ全土から悔い改めの洗礼を受けるため人々が集まって来ました。ヨハネは、メシアの前に現れるエリヤだったと14節に明言されています。先駆者としてメシア登場の道備えをするためでした。そして、イエスさまが登場されました。
民の指導者たちは、自分達の非を認め、改革することもなく、ただ、ヨハネとイエスさまの悪口を言ったのです。荒れ野で禁欲的な生活を送っていたヨハネとは違い、イエスさまは自ら「罪人」「徴税人」はじめ、当時の社会から疎外されていた人々のところに行かれました。「仲間」という批判は、神さまから見れば、誉め言葉です。それくらいイエスさまという方は、社会の不条理に苦しむ人々に寄り添い、共に歩まれたのです。
二つの解釈のどちらをとっても同じく重要なのは、私たちが信じるイエスさまは何と呼びかけておられるのかということです。復活の主がどこにおられ、そして私たちに何を語りかけておられるのか、そして私たちはどう応えて行くのかが問われているのだと思います。
クリスマスを見据えながら、今、私たちにささやかれているイエスさまの小さな声に耳を傾け、心を開いて、そして自分なりの応答の仕方を考えながら、この時期を歩んで行きたいと思います。
2018年11月11日 降誕前第7主日 笹井健匡牧師
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今日は聖徒の日・召天者記念礼拝を守っています。
児島教会に赴任してから約4年半になりますが、その間5名の方を天に送りました。また私事では、児島に引っ越してから1週間後に弟が急死するということがありました。亡くなられた方々を思うと、悲しみ、寂しさ、喪失感や悔いの念が残りますが、時が経ち、自分も死ぬ定めを持つ人間であるとの自覚を強くし、先に召された方々と再会できる時が来るのだということを思う時、
与えられている残りの旅路を自分も一生懸命に歩まねばならない、と思うようになるのではないでしょうか。
ヨハネによる福音書12章24節には、「はっきり言っておく、一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」というイエスさまの言葉が記されています。イエスさまご自身が、一粒の麦として死なれ、そして、多くの実を結ばれました。イエスさまの死は多くの人々を生かす生命となり、イエスさまによって生かされた人々は、イエスさまの実として生きていったのであります。
今日記念している40名の方々お一人お一人もそれぞれに与えられたこの世の旅路という人生を精一杯に生きられ、良き物を私たち一人一人に残して、天に召されたのです。お一人お一人が一粒の麦として死なれ、その種を残された一人一人の心の中に蒔かれました。私たち一人一人が、愛する者の死によって蒔かれた種を育て、実を結ばないといけません。そして、私たち一人一人も一粒の麦として生き、死んだならば多くの実をもたらす種を残された人たちの心の中に蒔く者とならなければならないと思わされます。
聖徒の日・召天者記念日のこの日、先に召された方々を覚え、思い出をよみがえらせ、先人たちの蒔かれた種を育て大きく実らせることができるように務める者でありたいとおもいます。そして、イエスさまにあって神さまに祈りつつ、ここにいます一人一人がこの世の旅路を終りまで歩み続けていくことができる者でありたいと思います。
2018年11月4日 聖徒の日・召天者記念礼拝 降誕前第8主日 平島禎子牧師
児島教会に赴任してから約4年半になりますが、その間5名の方を天に送りました。また私事では、児島に引っ越してから1週間後に弟が急死するということがありました。亡くなられた方々を思うと、悲しみ、寂しさ、喪失感や悔いの念が残りますが、時が経ち、自分も死ぬ定めを持つ人間であるとの自覚を強くし、先に召された方々と再会できる時が来るのだということを思う時、
与えられている残りの旅路を自分も一生懸命に歩まねばならない、と思うようになるのではないでしょうか。
ヨハネによる福音書12章24節には、「はっきり言っておく、一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」というイエスさまの言葉が記されています。イエスさまご自身が、一粒の麦として死なれ、そして、多くの実を結ばれました。イエスさまの死は多くの人々を生かす生命となり、イエスさまによって生かされた人々は、イエスさまの実として生きていったのであります。
今日記念している40名の方々お一人お一人もそれぞれに与えられたこの世の旅路という人生を精一杯に生きられ、良き物を私たち一人一人に残して、天に召されたのです。お一人お一人が一粒の麦として死なれ、その種を残された一人一人の心の中に蒔かれました。私たち一人一人が、愛する者の死によって蒔かれた種を育て、実を結ばないといけません。そして、私たち一人一人も一粒の麦として生き、死んだならば多くの実をもたらす種を残された人たちの心の中に蒔く者とならなければならないと思わされます。
聖徒の日・召天者記念日のこの日、先に召された方々を覚え、思い出をよみがえらせ、先人たちの蒔かれた種を育て大きく実らせることができるように務める者でありたいとおもいます。そして、イエスさまにあって神さまに祈りつつ、ここにいます一人一人がこの世の旅路を終りまで歩み続けていくことができる者でありたいと思います。
2018年11月4日 聖徒の日・召天者記念礼拝 降誕前第8主日 平島禎子牧師
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