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 今日の聖書、詩編100篇はユダヤ教の礼拝の中で、神殿に入場する時に交互に歌われた賛美の歌であると言われています。私たちは礼拝のなかで詩編の交読をします。詩編の多くが祭司のみによって読まれたものではなく、会衆と交互に読まれた、歌われたものであったと思われます。その伝統もあり、私たちは詩編の交読をなしているのではないかと思います。

 今日の詩編は、短い、簡素な歌です。しかし、この詩編には、神さまへの「喜び」と「感謝」の感情がほとばしり出ています。2節には、会衆に対して、この場に臨在される神の御前に進みでるように、との喜びに満ちた礼拝への促しの言葉が記されています。そして、3節には、神さまがどのような方であるのかを思い起こさせる言葉が記されています。「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民。主に養われる羊の群れ。」と記されています。私たちの神さまは、私たちの造り主であるということがまず言われています。神に造られた者として、私たちの人間的な自意識や自己評価は神の前に沈められるのです。「私」が「私」の主ではなく、「神」が「私」の主なのです。自らの心を沈め、自分を造られた方、創造主である神を知り、私たちは神さまに守られる羊の群れとして、謙虚にそして安心感をもって生きていくことができるのです。どのような状態に置かれても、神さまは私たちを守ってくださる、羊の群れを守るようにやさしく、大きな心で守ってくださるのです。また、礼拝は公同の場で行なわれるものです。「私」ではなく、「私たち」という複数形を主語にして、主にある人々、主にある姉妹兄弟としての連帯の中で、3節の言葉を受けとめることも大切であろうと思います。

 この詩の後半4,5節では、4節を祭司が、5節を会衆が歌ったと言われています。4節で、神さまへの感謝と賛美が促され、5節において神さまの恵みと「慈しみ」と「真実」の大きさが述べられています。「慈しみ」と言う言葉はヘブライ語で「ヘセド」という言葉で、「契約に基づく真実な愛」を意味します。神さまの慈しみ、神さまの愛は気まぐれなものではありません。神さまはイスラエルに、そして全人類に愛と慈しみの約束を与えられ、その約束に対して、いついかなる時も忠実であられるのです。「主の真実」に応じる「人の真実」を「信仰」といいます。この「真実」、「信仰」という言葉は、同じ「エム―ナー」という言葉です。たとえ「人の真実」が敗れても、「神さまの真実」は永遠に変わることはありません。その神さまの「真実」に立ち帰ることによって、「人の

真実」は確かなものへと変えられていくのです。そして、そこから信仰の喜びというものが

湧き出てくるのです。

今日は2021年最後の礼拝です。この一年間、神さまの恵みと真実が私たちの上にありました。私たちが真実をもって対せなくとも、神さまは忍耐して私たち一人一人を愛して下さいました。この神さまに感謝して、来る新しい年を迎える者でありたいと思います。

2021年12月26日 降誕節第1主日 平島禎子牧師

   



 クリスマスおめでとうございます!

 今年のアドベント祈祷会では、3回にわたってエリサベト、ザカリア、そしてヨセフに焦点をあてて来ました。母となったマリア以外にも、多くの人々の関わり(役割と働き)があったことをあらためて思わせられました。

 今日の聖書では羊飼いが登場します。彼らは、誕生したばかりの幼子イエスについて、天使のみ告げを人々に知らせる働きをしました。イエスさまが宿屋ではなく、馬小屋に生まれられたからこその、羊飼いたちの出番だったのかも知れません。神さまの御業、そのご計画は、すべてのものが働くように、そしてより美しく輝くように、用意周到に備えられていることを再認識させられます。

 天の大軍とともに、天使たちが賛美したのは、”栄光が神にあるように、平和が地にあるように”、というものでした。

私は、手紙や文章の書き出しに、ながらく「主のみ名を賛美します。」を使って来ました。デジタル化、短縮化にともない、最近では「栄光在主。」をよく使うようになりました。「拝啓」の代わりみたいですが。

主なる神に栄光があるように、という言葉と、地上に平和があるように、という言葉は、切り離せない、一つの賛美なのです。だから「栄光在主」という言葉には、「平和在地」が含有されているのです。

平和というと、もちろん戦争のない状態、あるいは衣食住が満たされている、安心で、幸福な状態を思い浮かべます。しかしイスラエルの民、ヤハウェを信じる人々にとっては、神との関係が第一なのです。まず神との間に平和な関係が築かれていることがあって、その上に、地上での他者との間の平和があるのです。

神との間が平和な人となりたいと思います。パウロはローマ5・1で信仰義認とは、神との間の平和だと言っています。イエス・キリストを信じることによって得られる最大の恵みは、神との間の平和とも言えます。

神との間に平和を実現できると、自分自身との間にも平和が実現できます。そして、真に平和な人となって、隣人との間にも平和を実現して行くことができるのではないでしょうか。

クリスマス、それはイエスさまが平和の主としてお生まれになった日です。今年もイエスさまを自身の心に迎え入れ、私たち自身が平和になり、そして少しでもこの地に平和をもたらすことができるよう、祈りたいと思います。

 

 2021年12月19日 クリスマス(降誕前第1主日)礼拝 笹井健匡牧師


説教題「小さな者として」 マタイによる福音書25章31~40節

 

 アドベントクランツの3本のロウソクに火が灯りました。クリスマスが近づいてきました。トルストイの書いた「靴屋のマルチン」という物語があります。この物語は、今日の聖書に書かれていることから書かれているのではないかと思います。

今日の聖書マタイによる福音書25章35、36節には、正しい人をよしとする理由が記されています。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」助けを必要としている人間に対してなされた「愛の業」が記されています。しかし、この言葉を聞いた人たちは、「いつ」それらのことをしたのか、わかりませんでした。するとイエスさまは、「はっきり言っておく。わたしの兄弟である最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と答えられたのです。

 あらゆる貧しい人たち、社会から疎外されている人たち、差別や抑圧の中にある人たちの中にイエスさまはおられるのです。そして、それらの人たちに善い行ないをしたことは、イエスさまにしたことと同じであると言われるのです。しかも、「この最も小さき者の一人に」と言われています。善行をたくさん行なったかどうかということが問題ではなく、たった一人の人に対してでも、真の愛をもって対したかどうかということが、問題になるのです。

 ルカによる福音書7章47節には、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさでわかる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」と記されています。今日の聖書の箇所でよしとされた人たちは、イエスさまから多くの罪を赦され、愛されたからこそ、この世の最も小さい者を愛することができたのだと思います。

 ミカ書5章1節には、讃美歌267番(讃美歌21)にもあるように、ベツレヘムは小さな町であることが記されています。その小さな町にある小さな馬小屋でイエスさまは「小さな者」としてお生まれになられました。そのイエスさまが、この世での「小さな者」たちに心を寄せられ、自分がその人たちであるのだ、と言われたのです。

 イエスさまは「小さな者として」私たちのもとに生まれられました。ここにいる私たち一人一人も小さな者であります。イエスさまは、わたしたちを含める小さい者たちを愛し、赦し、生かしてくださいます。そして、わたしたちに「より小さい者」を愛し、行動するようにと背中を押してくださいます。

わたしたちの日常の中においでになるイエスさまを喜んでお迎えする、そのような心を、このアドベントの時、培っていくものでありたいと思います。

 

   2021年12月12日 アドベントⅢ礼拝(待降節第3、降誕前第2主日) 平島禎子牧師      


 アドベント第2主日を迎えました。毎年このアドベントの時期には、主イエスのご降誕を喜び迎えるべく、心の備えをすすめて行きます。イースターもそうですが、私たちクリスチャンは、信仰の大切な節目の時、もう一度、自らの心に目を向けて行きます。心を大事にする、その信仰の在り方の、遠いルーツが今日の聖書にあります。

 エレミヤは、若くして預言者としての召命を受け、エルサレム陥落、バビロン捕囚という大変な時代に人々を導いた人物です。そして私たちクリスチャンにとって最大の事は、「新しい契約」という言葉と、それを心に置いたことです。

 イスラエルの民は、石に刻まれた契約(律法)を神の救いの証しとして、その歴史を歩んで来ました。それは言わば外から迫って来るものでした。しかし結局その契約を守ることはできなかったのです。

 そこで神さまは、今度は新しい契約を結び、そしてそれを胸の中に授け、心に記すと言われたのです。律法が人の内側にあって、その人を内面から動かして行くのです。もはや教える必要もなく、人々は神を知っており、ヤハウェはイスラエルの民の神となり、イスラエルの民はヤハウェの民となるのだと。それゆえ、神さまは完全に罪を赦される、というのです。

 つまり、ここにはインマヌエルが実現し、すべての罪は赦されるという、クリスマスの出来事の前触れのようなことが言われているのです。

 イエスさまの誕生は、イスラエルの歴史の歩みの中でも、一歩ずつ備えられて行ったと言えるのかもしれません。時が満ちるに及んで、エレミヤから5百年以上も経て、ついにイエスさまは真の救い主として誕生されました。

 今を生きるわたしたちも、大変なことを幾多も経験していますが、神さまが、人類の歴史を通して、救いの業を進めて来られたことを信じたいと思います。

 たとえ今がどんなに暗くても、必ずその先に光が射すことを信じて、主イエスの出来事によって、「歴史は救いの過程である」ことを知らされている私たちは前を向いて希望をもって歩んで行きたいと思います。

 一人ひとりの心に記された、新しい契約を信じて。

 

  2021年12月5日 アドベントⅡ(降誕前第3主日)礼拝 笹井健匡牧師