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 ペンテコステおめでとうございます!聖霊については、そのイメージの多様さも、またその働きの大きさもあり、なかなか「これです」「これが聖霊です」という説明はできません。しかし長いこと、信仰生活を続けていると、ああ、今聖霊に満たされているなあ、とか、これはきっと聖霊の導きだなあとか、感じることが時々あります。
 何よりも明確なのは、どんな実を結んだかという結果によって、聖霊を、その働きを知ることができるように思います。人間的にどんなに素晴らしいと思えても、この世的にものすごい成功だと思えても、そこに神の霊である聖霊の働き、導きがなければ所詮は人の業に過ぎません。いつかは朽ち果ててしまいます。
 今日の聖書は、その聖霊が結ぶ実について教えてくれています。「愛」から始まって「節制」まで霊の結ぶ実の言葉が記されています。5章の流れからいうと、イエス・キリストによって真の自由を与えられた私たちは、その自由を、愛することに用いましょう、とパウロは言うのです。そしてそれは聖霊の導きに従って歩むことだと言います。
 約2000年という時を隔てて、今私たちは大きな歴史の転換点を迎えているのかも知れません。この先、いったいどんな世界になっていくのか非常に不透明です。しかし私自身は少し楽観している部分があります。もしかしたらこの世的にはさらに大変なことが次々と起こって来るかも知れませんが、それでも、信仰の大先輩たちが、あらゆる困難を乗り越えて、いや神さまによって乗り越えさせられて福音が広がっていったように、きっとこの先も備えられていると信じることができるからです。
 今まで、私たちを豊かに導いて下さった神さまは、これからも同じように豊かに導いてくださると思います。私などは今、こうして生きているだけで、奇跡としか思えません。
 祝祷で祈りますように、そして今日の聖書にもありますように、聖霊の導きに従って歩んで行きましょう。そうすれば自然に、時が来れば必要な実は結ばれるのだと思います。そのことを信じて、互いに祈り合い、支え合いながら信仰の歩みをすすめて行く者でありたいと思います。

2020年5月31日 ペンテコステ礼拝 笹井健匡牧師

 私たちはイエスさまの昇天後、そしてペンテコステ前の時を過ごしています。以前は、この時は、何となく不安で空白な感じを覚えながらも、熱心に聖書を読み、祈って過ごさなければ、と肩に力が入っていたように思います。それはイエスさまが地上におられない、という思いからでした。しかし今回エリヤが天に上って行くところを読んで、少し心が強められたような気がしました。
 エリヤは、「山上の変容」にも、モーセ(律法の代表)と共に登場する預言者の代表です。また生きたまま天に上って行ったことから、メシア到来の前触れとして出現する、と考えられていました。
 今日の聖書は、その場面ですが、別の角度から見ると、後継者であるエリシャへのバトンタッチの場面ということができます。エリヤは神さまの御用を終え、天に帰る時が来たのです。しかしエリシャは、エリヤから離れず、最後にエリヤの霊の二つの分をほしいと願います。そしてエリヤは天に上げられ、外套だけが落ちて来て、エリシャはそれをもらいます。そしてヨルダン川を渡って、西岸のエリコに行くのです。
 50人のエリコの預言者たちの言葉「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」という言葉に、今回私は、はっとさせられました。イエスさまの昇天を見送った弟子たちの上にも、同じように、イエスさまの霊がとどまっていたのではなかったのか、と思わされたからです。
 エリヤがエリシャを放っておかなかったように、イエスさまも弟子たちを決して放っておかれた訳ではなく、自らの霊を与えて、ペンテコステまでの日々を導かれたのではないか、と思わされました。
 私たちは、多かれ少なかれ、師と呼べる存在をもっているのではないかと思います。そしてその存在と別れを告げるとき、大きな悲しみと心にぽっかり穴が空いたような感覚を覚えるのではないでしょうか。しかし、その師の霊は、確かに私たちの上にとどまっている、一人ひとりの中で、生き続けているのではないかと思います。
 天に帰る、ということはこの世的には悲しいことですが、地上に残された者には、ちゃんと必要なものが備えられていることを信じ、そしていつかは自分自身も天に帰る存在であることを覚えながら、この地上での歩みを師に恥ずかしくないよう、すすめて行く者でありたいと思います。

2020年5月24日 復活節第7主日礼拝 笹井健匡牧師

「イエスの平和」     ヨハネによる福音書14章25~31節
 
 今日は「ペンテコステ」の前の前の主日です。そして、今週の木曜日である21日は、イエスさまの「昇天日」になります。イエスさまが地上から天へ昇ってしまわれることは、弟子たちにとって悲しく、不安なことであると思います。ですから、前もってイエスさまはそのことについて話されたのだと思います。イエスさまは弟子たちを地上に放ったらかしにはしないということ、天から「弁護者」ともいえる「聖霊」を送ってくださるということを話されたのではないかと思います。
 「聖霊」が降ると、弟子たちは、「すべてのこと」、「イエスさまが話されたこと」をことごとく思い起こさせてくださる、とイエスさまは言われるのです。イエスさまのことを思い、聖霊をいただくと、これまでの自分では負いきれなかったことも負えるようになる、これまで怖がっていたこども怖くなる、というようになるということではないかと思います。今までと同じように生きているようでも、これまでの負の行動が変えられていき、生きる柱が愛となるように、聖霊は導いてくださるのではないでしょうか。
 イエスさまは、「平和をあなたがたに残して、わたしの平和を与える」と27節で言われました。「聖霊」による賜物こそ、「イエスの平和」なのです。「イエスの平和」とは、争い、憎しみがあったとしても、それを乗り越えていく「力」であると思います。争いや憎しみ以外にも現在流行っている「新型コロナウィルス」のような恐ろしい伝染病がある状態も平和ではありません。そのような状況の中で、病の苦しみの中にある人たち、その家族、また必死で働いてくださっている医療従事者を差別する人たちがいます。本当に腹立たしく、悲しい思いになります。また、コロナは人から人へと感染するので、人が集まる場所には行ってはいけなくなりました。そのために、しばらく閉店する飲食店などが増え、経済的不安があります。また、在宅ワークを強いられる人たちもいます。しかし、医療従事者に感謝をしよう、ということも多く言われるようになり、また、アーティストなどは、動画を使って。見る人の心が少しでもストレスレスになるようにとしてくれています。応援、希望をもってこの世を励ましてくれる人たちがいるというのは、大きな支えになるのではないでしょうか。私たちも心に愛をもち、できることをしていきたいと思います。
 イエスさまは弟子たち、わたしたちを放っておくことはなさらず、聖霊を送ってくださいます。「イエスの平和」を与えられた者として、この世の只中にあっても絶えず「平和な心」をもって生きていく者でありたいと思います。
 
2020年5月17日 復活節第7主日 平島禎子牧師

 今、私たちは復活節を歩んでいます。そしてそれはイースターから40日間となっています。しかし、今日の手紙を書いたパウロは、ペンテコステを経た後、さらに教会の誕生と成長、ステファノの殉教の後、復活の主と出会ったのです。つまり、復活の主は、昇天してずっと神の右に座し続けておられたわけではなく、必要に応じて、地上の私たち人間のところに来られる方なのです。
 マグダラのマリアはじめ、近しい存在だった弟子たちにとっては、実際に復活の主を「見た」ということが重要だったのかも知れません。しかし、イエスさまは「見ないのに信じる人は、幸いである」とトマスに言われました。
 パウロにしても、使徒言行録に3回、復活の主との出会い、つまり彼の回心が記されていますが、はっきりと「見た」というよりは、イエスさまの声を聞いた、という方が正確です。パウロ自身が自らの回心についてより詳しく書いているガラテヤの信徒への手紙1章16節でも「示して」という表現が使われています。
 つまり復活の主と出会い、それまでの生き方を180度変えて、回心するというのは、もっと大きく広く捉えるならば、今も生きて働いておられる主イエスを感じて、自らの救い主と信じ、新しい人となり、生きることだと思います。
 パウロは迫害者から伝道者へと変えられました。それは他の人には分からない大きな苦しみ、痛みを伴う人生であったかも知れません。しかし彼は、「神の恵みによって今日のわたしがある」と言います。前出のガラテヤの信徒への手紙の15節では、「母の胎内にあるときから選び分け、召し出してくださった」と記しているのです。自分は元迫害者かも知れないけれども、しかし、神はすべて聖なるご計画の中で、この私を用いられたとパウロは確信しています。
なかなかここまでにいたるのは、容易なことではありませんが、私たちもそれぞれの人生をしっかりと振り返り、ああ、あのことも、神の御手の内にあることだったのだなあ、と内省したいと思います。祈りは、決してお願い事をするだけではなく、今ここにいたった自分の人生を、神の前に申し上げ、そしてこれまでの導きに感謝するとともに、クリスチャンになって本当に良かったと思えるように、過去の信仰生活をしっかりと見つめ、そしてこれからどのように歩んで行くことが神さまのみ旨であるのかを知らされていくものだと思います。
巣ごもりの今だからこそ、私たちはパウロの回心を思いながら、自らの信仰の歩み、人生の歩みを今一度振り返るときとしたいと思います。

2020年5月10日 復活節第5主日礼拝      笹井健匡牧師

 復活節も第4主日となりました。復活によって、弟子たちは絶望から希望へと変えられましたが、この後、ペンテコステによって、伝道が開始されます。他のいわゆる共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)と違って、ゲッセマネの祈りの時に、イエスは聖霊について雄弁に語っておられます。14章から17章がそれにあたります。
 今日の聖書の後、26節、そして15章26節、16章7節、13節等です。イエスは、自らがこの世を去らねばならないことを覚悟され、自分の代わりに、弁護者として、真理の霊、つまり聖霊を遣わし永遠に一緒にいるようにしてくださることを語られました。イエスの復活を体験したとき、弟子たちはこのイエスの言葉を思い出していたことでしょう。
 復活の40日間というのは、弟子たちにとっては今一度、イエスの教え、生前には理解できなかった教えを、確認するときだったのかも知れません。それがあったからこそ、弟子たちは、聖霊を受けた時に、生まれ変わったように働き始めることが出来たのではないかと思います。具体的には、イエスの言葉を思い出しながら、聖書を読みなおし、祈り、少しずつ、何が起こっていたのか、真理へと導かれて行ったのではないでしょうか。
 今日の聖書の最初に、「わたしの掟」が出て来ます。13章34節にある「…互いに愛し合いなさい。」です。唯一の条件は、私たちが互いに愛し合っていることです。イエスを愛し、互いに愛し合っているところに聖霊は降るのです。逆に言うと、いがみ合い、憎み合っているところには聖霊は降らないのです。
 私たちは聖霊のことは、よく分からない、と言います。しかしイエスさまは、「あなたがたはこの霊を知っている。」と言われています。頭では分からなくても、心の深いところで、魂で分かっている、と言ってもいいのではないかと思います。そして永遠に一緒にいて下さる存在です。しかも私たちを弁護して下さる存在なのです。
 復活節のこの時、蘇られたイエスさまに思いを馳せ、またそのイエスさまと会いまみえることが出来た弟子たちの喜びを思いながら、さらにその先に、弁護者、真理の霊である聖霊が与えられることを望みながら、信仰の歩みをすすめて行く者でありたいと思います。

2020年5月3日 復活節第4主日礼拝       笹井健匡牧師

 週報の表紙に、すでに4月から掲載しております、今年度の聖句を取り上げさせていただきました。今はまだ役員会からの(案)であり、正式にはこの後の、定期総会で決定されます。
 ご存知の通り、玄関の壁に掲げられた額に入った「信仰目標」の聖句です。いつもの年は、わりと聖句の案、つまり、どの聖句にするか、すぐに浮かぶのですが、今年はなかなか浮かばず、最終的に神さまから示されたのが、この聖句でした。そして、今回説教の準備をしていく中で、漢字3文字が気になり、続けて並べて見ると「ききかん」となったのです。
 今、新型コロナウィルスの危機感が世界を覆っている状況の中にあって、最初不謹慎だと思いました。しかしよくよく考えて見ると、感染症を正しく恐れるのは、一市民として大切なことですが、同時に私たちはイエス・キリストを信じる信仰者でもあります。一個人としては、正しく恐れながら、死をも打ち破られたイエスを救い主と信じる者として、また全能の神を信じる者として、神さまが今私たちに何を望んでおられるのか、もう一度考えてみたいと思います。
 2千年前、神の業は、十字架の死で終わらず、復活の喜びによって、絶望から希望へと変えられました。そのことをこそ今、私たちは深く思う必要があるように思います。
 今日の手紙は、パウロの手紙の中で最初のものです。しかしすでに大変な宣教と迫害を経験した伝道者、信仰者の言葉なのです。いいことがあったときだけではなく、「いつも」喜んで、そして神さまに顔を向けられないと思えるような時でも、自分がどんな状況にあろうとも「絶えず」祈り、そしてうれしいこと、ありがたいことだけでなく、すべてのことに、「どんなことにも」感謝するようにパウロは勧めているのです。そしてそれこそが、神さまが私たちに望んでおられることだと言うのです。
 私たちは毎日いろんな経験をします。特に今はストレスが多く溜まっている人々も多いと思います。ある意味、強い危機感を感じますが、だからこそ、この個所で言われている喜び、祈り、感謝、つまりもう一つの「喜祈感」をしっかりと心にもって、この先に必ず救いがあることを信じて、歩みを続けて行く者でありたいと思います。

2020年4月26日 復活節第3主日礼拝       笹井健匡牧師