5月23日は狭山事件で石川一雄さんが不当逮捕された日です。今年で61年になります。狭山事件は部落差別故の冤罪事件です。石川さんが無罪である証拠は山のようにあります。石川さんの無実を勝ち取るために具体的なことはできなくても、関心を持ち、祈りに覚えていくことも、戦いに加わる一つの方法であろうと思います。このような戦いを外なる戦いと捉えていいかもしれません。一方、内なる戦いというのは、人間の中にある不安の裏返しのような醜い感情、高慢、ねたみ、中傷、邪推などを持たないように戦うこと、また金銭欲と戦うことを意味しています。(6・3~10)人は色々な感情を持ちます。他者への攻撃的な思いではなく、自分への攻撃的な思いを持つことがあります。必要以上に自分を責めること、過度に自己卑下してしまうこともまた、人を害する感情であると言えるのではないかと思います。他者へ向かうマイナスの感情、自分へと向かうマイナスの感情、これらの感情と戦っていくということも大切なことであろうと思います。
さらにキリスト者の信仰の戦いについて考えていきたいと思います。テモテはパウロの伝道の同行者(16・1~5)であり、宣教の同労者でもあります。テモテはエフェソの教会にとどまって(1・3)宣教の業、牧会の業に携わっていたのです。そのテモテに対して、パウロは、「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。」(6・12a)と言います。この世の悪を避け、正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求める(6・11)ことが「信仰の戦い」でなされることなのです。
「信仰の戦い」を戦うためには、絶えず自分の信仰の原点に返り、洗礼を受けた時に人々の前でなした証し(6・17b)を思い起こすことが必要であるのかもしれません。そして、偽教師(1・3~5、6・3~5)の在り方から遠ざかると共に、金銭を追い求める在り方(6・9~10)を避けて生きるように努めていくことが大事であると今日の聖書は教えています。
また、正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めるということは、正義をこの世に実現するということであろうと思いますし、平和を追い求めるということも含まれるのではないかと思います。それらのことも、広い意味では、キリスト者の「信仰の戦い」の中に入るのではないでしょうか。偽教師、現在でいうならカルトということになると思いますが、カルトと戦うことも「信仰の戦い」であろうと思います。
しかし、「信仰の戦い」を戦うということは、私たち人間の力でなすことはできません。私たちの「信仰の戦い」はイエスが共に戦ってくださる戦いです。イエスにあって、偽教師に惑わされず、この世の悪に染まらず、正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めていく者でありたいと思います。そして、この世の正義のために、平和のための戦いに祈りつつ参与していく者でありたいと思います。
2024年5月26日 聖霊降臨節第2主日 平島禎子牧師
ペンテコステおめでとうございます。今では私たちは、聖霊降臨によって教会が誕生したことを当たり前のように祝っています。しかし、約2千年前、最初の教会の誕生日は、本当にあり得ない出来事でした。その様子を使徒言行録2章はよく伝えてくれています。
今日の聖書は、驚き、とまどい、またはあざける人々に対してペトロが語った最初の言葉です。ペトロは、聖霊に満たされ、ヨエル書の預言が実現した、と語りました。
預言者ヨエルに関しては、諸説ありますが、私は最後の預言者だと考えています。そしてそれから洗礼者ヨハネが登場するまでには、数百年の年月が経っていたと思われます。つまり、ヨエルが預言した「その後」(ヨエル3:1)は「終わりの時」と捉えられ、イスラエルの民はその時を待望するようになりますが、待てど暮らせど、なかなかその時が訪れなかったのです。
ヨエル書においては、イスラエルの民はイナゴの害に苦しみ、絶望の淵にありましたが、神に立ち返ることによって救われ、そして最終的には神の霊がすべての人に注がれ、終末が到来するということが預言されています。
しかし数百年待たされる中で、人々は疲弊し、絶望し、つぶやき、ぼやいていたかも知れません。そこにイエス・キリストが登場し、神の国の福音を語りました。最初の弟子となり、十字架と復活を通して、そのイエス・キリストを信じたペトロが聖霊を受けて、「僕」、「はしため」を含めて、すべての人が預言すると言ったのです。
それまで自分たちが置かれている現状に絶望し、なげやりになり、また過去の栄光ばかり語っていた人々が、神の言葉を預かるようになる、つまり、未来への希望を語るようになるというのです。
現代も具体的状況は違いますが、ある意味で、絶望的になり、あきらめ気味になり、過去に生きているような、同じようなものがあるかも知れません。そんな私たちのところに、神さまは今年も聖霊を降臨させられます。
聖霊をいただき、聖霊に満たされ、そして自らのうちから聖霊があふれ出ていくような歩みをなしたいものです。そのために、いよいよ祈りを熱くし、互いに支えあいながら、そして未来への希望を語りながら信仰の道を歩んで行きたいと思います。
2024年5月19日 ペンテコステ礼拝 笹井健匡牧師
パキスタン、アフガニスタンで医療従事をしておられた中村哲医師は、2000年の大干ばつでアフガニスタンが大きな被害を受けた時、病人が診療所に押し寄せて来るのを目の当たりにし、「もはや病気の治療どころではない、ここにいる患者たちのほとんどは食べ物ときれいな水さえあれば助けられる。水だ。今必要なのは水なのだ。」と思い至られます。そして、井戸を掘るという作業を始められます。その結果、1600もの井戸が掘られ、地下水をくみ上げることができるようになりました。しかし、アフガニスタンの干ばつはひどくなる一方で、地下水も枯れてしまうという状態になりました。中村医師は地下水に頼るのは限界であるとし、川から水を引く用水路を作ることを決意します。2003年から灌漑事業が始まりました。中村医師は白衣を脱ぎ、灌漑工事のことを一から学び、人々と共に汗を流し、用水路を開きました。この用水路は2010年に完成しました。人々の生活は潤されました。中村医師は2019年12月4日に車で移動中に何者かに銃撃され命を落としました。しかし、中村医師の志は、現地にあっても、日本にあっても引き継がれています。中村医師は人の命を救うために、人々の暮らしを守るために「水」が必要であるということに着目され、水を大地にもたらされました。
今日の聖書には、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって、流れ出るようになる。」というイエスの言葉が記されています。イエスのところには、渇きを潤す水があるのです。自分の中に渇きを持ち、自分ではどうすることもできない人が、イエスのところに来てイエスが与える水を飲むならば、自分の渇きが満たされるだけではなく、「その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる」のです。その人からまわりに向かって「生きた水」が注ぎ出され、周囲の渇いた地を潤し、周りにある死の地を命に呼び起こすのです。39節に記されている「霊」とは、イエスから湧き出でて、地上を流れる「生きた水」です。「霊」はイエスを信じる者の中に入ってゆき、その人を潤し、そこで再び湧き出で、周りに命を与えるのです。
中村哲医師は、アフガニスタンの人々に水をもたらしました。その水によって大地は潤い、緑も豊かになり、農作物もとれるようになりました。中村医師はクリスチャンです。中村医師はイエスによって「生きた水」を人々に与えるということをなしたのではないかと、私には思わせられました。「生きた水」は人々を生かし、潤す水です。そのような「生きた水」を私たちは求めているでしょうか。今一度イエスの言葉を聞く者でありたいと思います。そして、中村医師のような大きなことはできませんが、自分の内から「生きた水」が川となって流れるような生き方を求めていくことができるように祈る者でありたいと思います。
2024年5月12日 復活節第7主日 平島禎子牧師
今日は「こどもの日」です。現在では、もちろんまだまだ不十分なところもありますが、それでも一応こどもたちは、大切にされるべき存在になりました。しかし数十年前までは、大人より劣る未熟な存在であり、その存在価値が丁稚奉公や子守り等、労働力として考えられている面もありました。
イエスさまの時代は、もっと低く小さな存在だったのだろうと思います。今日の聖書は、幼児祝福でよく引用される個所です。子どもを抱き上げ、手を置いて祝福するという行為が今の教会でも行われています。イエスさまの、子どもたちへの豊かな愛を感じます。
それと同時に「子どものように」神の国を受け入れなければ決してそこに入れないというイエスさまの言葉から、子どものように素直に、全幅の信頼をもって神の国を受け入れようと思います。この伝統的なとらえ方はもちろん大事だと思いますが、事はもっと深刻なものを含んでいるように思います。
ここに登場する「子ども」は、ただの子どもではないかも知れません。というのは前後の個所を含めた10章1節~31節は、「財産」の話だからです。当時、女性、子どもは、男性の財産でした。ひどい話ですが、そこにはしかし、だからこそ「保護される」という側面がありました。そんな社会で「離縁」は社会的「死」を意味しました。子どもたちの場合も、いわゆる「母子家庭」は大変厳しい環境を子どもに課しました。さらに「孤児」となればいっそう厳しくなり、まともに生きて行くことは非常に困難になります。
弟子が叱ったのは、こうした子どもたちだったのではないでしょうか。金持ちの子どもだったら、「どうぞどうぞ」と言ったかも知れません。(献金を期待して)
14節の「妨げてはならない」は、「解放せよ」という言葉が使われています。おそらく弟子たちは、子どもたちを捕まえていたのだと思います。それに対してイエスさまは憤られたのです。この「憤り」という言葉は「激しい怒り」を意味する言葉です。イエスさまは激怒されたのです。(マタイ、ルカでは省略)
子どもは考えるより感じ、躊躇するより直行します。イエスさまを見て、その方へワ~と体当たりでもするかのようにやって来ました。この子どものように、イエスさまのところへ行く者こそ、神の国を受け入れそこに入る者です。私たちもその他のもろもろのものは二の次にして、イエスさまを第一として信仰の歩みを進めて行く者でありたいと思います。
2024年5月5日 復活節第6主日礼拝 笹井健匡牧師