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 子どもの頃、地面との距離が近かったせいか、蟻の行列を見るのが好きでした。蟻とは意味内容が違いますが、人間も行列をつくります。行列というのは、考えて見ると不思議なものです。みなさんは、どんな経験を持っておられるでしょうか。

 人間の行列の理由というか、本質は「待つ」ということにあります。「待つ」のが得意な人も苦手な人もいると思いますが、わたしはクリスチャンになってから、少しだけ待つのが得意というか、好きになりました。それは信仰者にとって「待つ」とは「祈っている時」でもあるからです。あてもなく、何もなく待つというのは大変しんどいものかも知れません。しかし明確な目的があり、そのことについての確信が与えられている時、その時まで「祈って待つ」のは、苦痛どころか、喜びであったりします。

 今日の聖書には、イエスを天に見送った後の、弟子たちの様子が記されています。復活の主イエスとの、喜びの日々、40日間を終えた後、ペンテコステまでの十日間は、ふつうだったらイエスと再び別れた悲しみに支配されているところでした。しかし彼ら彼女らの心には、イエスから聞いた神の約束がありました。

バプテスマのヨハネの水の洗礼を越える、聖霊による洗礼を授けられる、という約束でした。この、「イエスから聞いた神の約束」という何よりも確かなものを、彼ら彼女らは熱心に祈っていたのです。

 そこには、復活を経験した弟子たち、女性たち、イエスの母・兄弟たちを中心に、120人ほどの人々がいたのです。そして心を合わせて一つになっていたのです。まさに「祈りの集団」でした。真の愛と信仰と希望によって、何ものをも恐れない、約束への確信に満ちた群れになっていたのだと思います。そこについに約束の聖霊という”風”が吹いて、ペンテコステが起こったのです。

 時代や状況は大きく異なりますが、今の私たちにも神の約束は与えられているはずです。2000年という月日を、私たちの前の信仰者たちも、厳しい状況を前にしても、祈って待つことを通して、乗り越えて来たのだと思います。

 今年もペンテコステの出来事が私たちの上に起きるよう、祈って待つ者でありたいと思います。

 

       2022年5月29日 復活節第7主日礼拝 笹井健匡牧師


 「天上の友第四編」という非売品の本があります。旧組合教会を中心にした会衆主義教会の伝統と精神を受け継ぐ諸教会・伝道所及び関係学校や関係団体に仕え、天に召された教師たち(牧師、神学教師、教務教師)の人生が一人一頁という短い文章で記されています。人は必ず死にます。しかし、この「天上の友」に記されている人々のように、この世を生き抜いたクリスチャンがいたのだと思うと、死は恐れるに足らず、と励まされる気持ちになります。

 ヘブライ人の手紙11章1節には、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」と記されています。そして、そのような信仰をもった昔の人たちの名前が4節から12節まで、また17節から38節までに記されています。そして、それらの人たちは信仰によってこの地上を生きたということが記されています。まさに、「雲のような証人」がいるのです。聖書の時代から、数えきれないほどの信仰者たちの群れが私たちとつながっているのです。それらの人たちは、信仰を抱いて死にました。死ぬ時も望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することができました。これらの人たちは自分たちの望みは果たされるということを信じて、召されていったのです。

 私たちの人生は、この世での旅路です。人生という旅を私たちは歩きますが、それのみが事実ではありません。「自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であること」をクリスチャンは知っているからです。彼ら、彼女らにも地上の故郷はあったはずです。しかし、その地上にまさった故郷、天の故郷を熱望していたのです。神さまは、それらの人たちのために「都」を準備してくださったのです。(16節) 私たちの帰る故郷は「天の故郷」です。しかし、この世のことをおざなりにしていいということではありません。この世で「望み」と「見えない事実」を持ちつつ前を向いて歩いていくということが大事ではないかと思います。

 私たちには「天の故郷」があります。「天の故郷」は遠い昔から変わらずに存在します。そして、故郷というからには、わたしたちは以前すでに「天の故郷」にいた、と言えるのではないでしょうか。そして、この世の人生の歩みを歩みきったならば、再び「天の故郷」へと帰ることができるのではないかと思います。葬儀の時に「帰天」という言葉が使われることがありますが、「天の故郷」に帰るために、この地上で様々な経験をし、信仰をもって生きていくことが大切であろうと思います。

つたない信仰者の歩みであったとしても、神さまはほめてくださいます。私たち一人一人、「天の故郷」に帰る日が与えられます。そのことを信じ、この世での生を全うしていく者でありたいと思います。

 

      2022年5月22日 復活節第6主日 平島禎子牧師


 今日は、沖縄本土復帰50年の節目の日です。金曜日の朝ドラで、主人公は、1972年5月15日に東京へ旅立ちました。バスを待つ停留所で、妹の歌子が「私たちこれからもっと幸せになる」と言った言葉が心に残りました。

 1993年2月16日(火)伊江島にある「命どぅ宝の家」で阿波根昌鴻さんから約2時間にわたりお話を聞くことができました。戦前戦中戦後にわたってたくさんの貴重なお話を聞きましたが、その中で、命がいかに大事であるかということを、強烈に受け取らせていただきました。

 今日の聖書は、有名な「空の鳥、野の花」の冒頭の部分です。イエスさまが活動された時代は、確かにローマ支配下の過酷な政治状況でしたが、それでも、いやだからこそ、イエスさまは生きとし生けるものに目を向けさせられたのではないかと思います。すべての生き物は、神さまの愛によって美しく、たくましく生きているではないか。だとすれば、人間も、いや人間こそ、もっと大丈夫なはずではないか。すべての思い煩いを捨てて、神さまを信じて生きよう、と。

 そして、命が一番大事であることを教えられました。明日の食べ物に事欠くどころか、今日の食べ物すら確保できない、そんな状況を生きていると、食べ物の方に心が支配されてしまい、最も大事な命を忘れがちになる、それでは本末転倒です。そうではなく、命の源である神さまに心を向け、その恵みと導きを求めて生きなさい、と教えられたのだと思います。

 現代は飽食の時代です。戦時下とは違う意味で、食べ物に心を奪われています。しかしもしかしたら、また食べるのが大変な時代になるかも知れません。

 どのような時代になろうとも、命あっての物種、生きていればこそ、いろんな経験をすることができるのです。楽しいこと、うれしいことだけではなく、悲しいこと、つらいことも含めて味わえるのは、命あってこそです。

 イエスさまが教えらえたように、そして先の戦争から学んだように、命こそ最も大事であることをしっかりと覚えて、信仰の歩みを前に進めて行く者でありたいと思います。

 

       2022年5月15日 復活節第5主日礼拝 笹井健匡牧師


今日は「母の日」です。「母の日」の由来は様々ありますが、アメリカでは、アンナ・ジェービスが母のアン・ジェービスを追悼するために、教会を母が好きだった白いカーネーションで飾り、教会に来る人に白いカーネーションを配ったということが始まりだそうです。母のアン・ジェービスは、社会福祉、平和貢献のために尽力した人でありました。このことから、「母の日」は平和を希求する日として捉えてもいいのではないかと思います。

しかし、現在ウクライナにロシア軍が侵入し、攻撃をなすという戦争が起きています。プーチンはロシア正教会の信徒です。ロシア正教の復活祭はローマカトリック教会、また、プロテスタント教会より使用している暦の関係で1週間遅いのですが、その復活祭のミサの時に、プーチンは敬虔な顔をして十字を切っていましたが、ウクライナ侵略をどのように受け止めているのか、と腹立たしく思いました。

キリスト教では、「愛」ということが何よりも優先されなければならないことです。今日の聖書に記されている「愛」という言葉はギリシア語の「アガペー」が使われています。「アガペー」は真の愛であり、神から人々への一方的な大いなる愛として解釈することができる言葉です。神さまはこの世にその独り子を与えてくださり、救いの道を与えてくださったのです。ここに大いなる愛があるのです。イエスさまをこの世にお遣わしになられ、十字架につけられたということは、神さまにとって大いなる痛みでした。その大いなる痛みをもって、神さまは私たち人間を愛してくださったのです。その神の愛、イエスの愛を知った者は、神に感謝すると共に、自分もまた愛する者へと変えられて行かなければなりません。

「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。『神を愛している』と言いながら兄弟(姉妹)を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟(姉妹)を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟(姉妹)をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」と19節から21節に記されています。神さまを愛するということは、姉妹兄弟を愛することです。私たちは同時に憎んだり、愛したりすることはできません。兄弟姉妹を憎んで、神さまを愛することはできないのです。

神さまは、愛の発光体のような方であるかもしれません。その光を目に見える形で示されたのがイエスさまの生涯であったと思います。イエスさまご自身愛そのものの方でした。そのイエスさまは、御自身の命を十字架上で捨ててまで、全ての人を赦し、愛し尽くされたのです。私たちも愛であるイエスさまを愛し、愛なる神を信じ、聖霊の愛ある交わりを信じて、互いに愛し合っていく共同体でありたいと思います。

「神は愛です」この言葉を心に刻み、実際に神さまからの愛を受け、私たちも神さまを愛し、そして、姉妹兄弟、隣人を愛していく歩みをこの地上で行なっていくことができるよう、祈る者でありたいと思います。

2022年5月8日 復活節第4主日 平島禎子牧師


 今日は、メーデーです。若い頃、母教会のある京都ではいろいろな集会&デモがたくさんありました。教会に行って、新しいことに目覚めた私は、伝道、奉仕はもちろんですが、社会の諸問題にも積極的に関わるようになりました。

4月29日は天皇誕生日、5月1日はメーデー、5月3日は憲法記念日ということで、GWにも関わらず忙しい日々でした。

 若かったこともあり、いろいろなことに関心を持ち、心を燃やしていたのだと思います。ちょうど「昭和」から「平成」へと変わる、時代の転換期だったのかも知れません。

今日の聖書は、有名なエマオ途上の場面です。いわゆる「パン裂き」によってイエスだと分かったことが印象深く記されています。ルカ福音書では12人の他に72人の弟子がいたことが記さています(10:1)。今日の聖書の2人の弟子はその内の二人だと思います。これは想像ですが、おそらくイエスさまの「パン裂き」は格別のものがあったのだろうと思います。たぶんとても心がこもっていたというか、神さまへの信頼に満ちていたというか、そしてまた独特のしぐさ、くせのようなものもあったのかも知れません。みんなはその時、食事の時が、満たされた幸せな時、良き交わりの時だったのではないでしょうか。

 しかしイエスだと分かったのには、大切な伏線がありました。それは「道で話しておられるとき」「聖書を説明してくださったとき」、「心が燃えていた」というのです。何か分からないけれども、心に熱いものを感じていたのです。おそらくそれはイエスさまと始めて出会ったとき、その後弟子となってからも様々な場面で、伝道、奉仕、そして食事と交わりのとき、神さまへの思いを共有し、心熱くされていたのではないかと思います。その経験があったからこそ、この時に復活の主イエスに出会ったのだと思います。

 ここにいます私たちも、人生の途上でイエスさまと出会いました。その経験は様々ですが、共通しているのは、心が燃える経験ではないでしょうか。その経験をしたからこそ私たちはイエスさまを自らの救い主として、今日まで歩んでくることができたのではないかと思います。

心が燃える経験をした者として、今年も復活の主と共に、信仰の歩みを進めて行く者でありたいと思います。

 

2022年5月1日 復活節第3主日礼拝 笹井健匡牧師