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「変身」 使徒言行録9章17~19節

 日本のことわざの中には、聖書から出たものが結構あります。「豚に真珠」もそうです。今日の聖書の18節「目からうろこ」もそうです。先日、木谷誠牧師の前に今治教会の牧師をされていた尊敬する先輩牧師にK学園のことで、ある情報を伝えたとき、まさに「目からうろこ」です、と知らせると、その先輩は、いやいや「目から火花」や、と返して来られました。なるほど、さすが、・・・。
 今日の聖書は、パウロが元どおり見えるようになり、洗礼を受け、食事をして元気を取り戻したところです。ダマスコ途上で復活の主イエスは「サウル」と呼び掛けられます。サウルと言えばイスラエルの初代の王の名前です。ダビデ・ソロモンが超有名であるのに、サムエルの到着を待てなかった故に、王から退けられ、悲しい末路をたどった人です。・・・中略・・・。
 そして、パウロのもともとの名は、17節にもあるように「サウロ」でした。使徒言行録13章9節で、やっと「パウロ」と変わっていくのです。これはいったい何を意味しているのでしょうか。詳しいことは分かりませんが、名前が変わるということは中身も変わるということです。名は体を表すのです。
 最初はまだ聖書には「サウロ」として登場しているパウロに対して「サウル」と呼び掛けられ、そして、キリスト教の大伝道者となった頃には、「パウロ」とみんなから呼ばれるようになったのだと思います。つまりパウロは復活の主と出会って変身したのです。つまりパウロは、復活の主と出会って変身したのです。子どもの頃、ふつうの人が正義のヒーローに変身するテレビ漫画がたくさんありました。パウロは迫害者、つまり敵から、伝道者、つまり味方に変わったのです。しかも大変強力な味方に。
 ルカによる福音書7章47節で、イエスさまは「この人が多く罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。」と言われました。過去に過ちを犯し、赦された人は、その後、強力な正義の味方になります。部落差別に取り組む出会いの中で、何人かそういう方がおられました・・・。
 私たちも、洗礼を受けたとき、目からうろこが落ちたのだと思います。しかしながい信仰生活の中で、いつしかまた「うろこ」がたまっていくのかも知れません。1週間たまった「うろこ」を礼拝で落とされ、はっきり見えるようになってあらたな思いで、主イエス・キリストを宣べ伝えて行くとき、パウロの万分の一の働きでも、できるようになるのかもしれません。
 さまざまな弱さを持つ私たちですが、私たちは弱い時にこそ、主にあって強いのです。神さまに変身させられ、新たに歩み出して行く者でありたいと思います。
2017年7月30日 聖霊降臨節第9主日礼拝 笹井健匡牧師

「神の計画」 創世記50章15~21節

 今日の聖書は、父ヤコブが死んだ後、ヨセフの10人の兄たちの心配から始まります。兄たちは、ヨセフを憎み、ヨセフを商人に売り渡した結果、ヨセフは最終的にエジプトに連れてこらされたのです。そのことによって、父ヤコブ、ヨセフと同じ母から生まれたベニヤミンの苦しみは大きなものであっただろうと思わされます。兄たちはヨセフに許しを請い、ヨセフの前にひれ伏します。創世記37章1~11節に記されている、兄たちばかりか父母もヨセフにひれ伏すだろうというヨセフの夢が実現したのです。
 ヨセフは兄たちに、「私が神に代わることができましょうか。」と言いました。人間が人間を許すということはもちろん大切なことですが、究極的な許しは、神がなすものであるとヨセフは言っているのだと思います。そして、「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」とヨセフは言いました。そして、兄たちにやさしく語りかけたと21節には記されています。
 ヨセフはエジプトの地で牢に入れられた時、39章21節には「主が共におられ、恵みを施し、」と記され、23節には「主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計られた」と記されています。神さまが常にヨセフと共におられ、ヨセフを導いてこられたのです。どんな苦境の中にあっても、神さまはヨセフと共におられました。そして、悪しき事、良き事、すべてが神さまのご計画の中で進められていったのです。
 私たちは人生の中で色々な経験をします。嫌なこともあれば嬉しいこともあります。悪に直面することもあれば、善を施されることもあります。悲喜こもごもであるのが私たちの人生です。しかし、信仰者はヨセフのように、自分に起こる全てのことは「神の計画」の中にあると死因汁ことができるのです。そして、悪いことも益となるようにされているのです。その日その時に苦しみが起きても、神に助けを求め、より頼み、これも神さまのご計画の中にあると信じ、ひねくれないで歩き続けなければならないと思わされます。ヨセフが言ったように、悪が善を産むということもあります。そのことを信じて、悲しみや苦しみにとどまらず、神さまの自分に対するご計画があってのことと思い、進んでいかなければならないのであろうと思います。
 神の計画を思い、神さまを愛し、何が起ころうとも、一時的に立ち止まったとしても、そこに立ちとどまり続けることなく、神の計画の中で生かされていることを信じて、前を向いて歩いていく者でありたいと思います。

2017年7月23日 聖霊降臨節第8主日 平島禎子牧師

「神から出たもの」 使徒言行録5章38~42節

私たち信仰者が物事を判断するに際して、最も重要なのは、それが、神から出たものか、それとも人間の思いから出たものか、という点であります。神から出たものは永遠に続きますが、人間から出たものは、一時、栄えたように見えても、やがて自滅してしまうのです。祈って、祈って、本当にこれが神のみ旨かということを問う信仰の習慣が、ここでものを言います。

今日の聖書の中心人物はガマリエルという律法の教師です。ファリサイ派に属し、民衆全体から尊敬されていた人物です。22章3節を見ると、ここはいわゆる「パウロの弁明」と呼ばれているところですが、パウロもガマリエルのもとで律法の教育を受けていたことが記されています。ガマリエルという人物は、そうとうな人だったのだと思われます。

29~32節には、ペトロたちがした弁明が書かれています。これを聞いていた最高法院の人々は、激しく怒り、使徒たちを殺そうと考えたのです。ところがそこでガマリエルが立ち上がり、使徒たちを外に出したうえで、最高法院の議員たちに35~39節の、見識と含蓄のある言葉をのべたのです。彼は、心から神を畏れる者だったのだと思います。36節にはテウダのことが、そして37節にはガリラヤのユダのことがのべられています。そして、今日の聖書の38節で、人間から出たものなら、自滅すると言うのです。

私たちも神さまに祈るとき、聖書を読んで神の御声を聴くとき、何が神のみ旨であるか、ほんとにこれをしていいか、注意深く問わなければなりません。教会の業は神の業です。この世の栄華に惑わされそうになるとき、さまざまな誘惑に負けそうになるとき、もう一度、原点に立ち返り、神から出たものこそ重要であり、私たちが知からを合わせて取り組むべき事柄であることを心に刻まなければなりません。

今、私たちの社会、時代は混迷を深め、またさらに天災が追い打ちをかけるような時代に生きています。だからこそ、私たちは、何が神から出たものであり、何が人間から出たものであるのかを峻別しなければいけません。もしかしたら、まかり間違えば、神に逆らってしまうかもしれないのです。

日々、聖書に親しみ、祈りを熱くしながら、何が神から出たものであるかを知り、そのことのために賜物を生かして奉仕していく者でありたいと思います。

2017年7月16日 聖霊降臨節第7主日礼拝 笹井健匡牧師

「「罪人」を招く」 マルコによる福音書2章13~17節

今日の聖書の箇所は、私にとって一番大切な個所です。1991年11月17日、朝礼拝ではじめて説教した個所です。そこで私は自分が被差別部落出身であることを話しました。・・・。

イエスが最初に4人の漁師を弟子にしたことはみんな知っています。しかし5番目に弟子にしたのが徴税人であることは、ふだん忘れられています。しかもその徴税人の家で、多くの「罪人」も一緒にイエスと食事をしたのです。これは当時の社会常識では考えられないことでした。だからこそ、律法学者は、どうして徴税人や「罪人」と食事をするのか、と問うたのです。それに対するイエスの答えはシンプルでした。わたしが来たのは、「罪人」を招くためだ、と言われたのです。

日本は親鸞の悪人正機が有名です。実は親鸞は、当時避けられていた皮の草履をはいていたのです。当時の被差別者を救おうとする意図があったように思われます。実際わたしのところも、多くの被差別部落も浄土真宗が多いのです。キリスト教より5百年前の仏教が親鸞によってやっと変革のときを迎えたわけですが、イエスはさらにずっと前に、ユダヤ教の変革を、新しいキリスト教の誕生によって成し遂げられていたのです。

しかし、イエスの言動は、当時の支配者層にとっては、邪魔で、危険なものでした。ローマから目をつけられると、やっかいなことになります。しかしイエスの新しい教え、宣教はどんどん広がっていったのです。その結果が十字架でした。

しかし神さまは、そのイエスさまを復活させられ、ペンテコステによって、弟子たちも生まれ変わり、教会が各地に誕生して行ったのです。その後継者として私たちは、今、ここに、生きています。

今日は、「部落解放祈りの日」です。7日(金)に大阪で説教奉仕させていただきました。そのときイエスさまは、「罪人」を招くように神様から召命を受けたことを話しました。ここにいます私たち一人ひとりも神さまから召命を受けて教会に連なる者となりました。神さまから見ればすべての人は愛すべき子どもなのです。そこに差別はありません。私たちもイエスに従い、すべての人が安心して生きられる愛の世界を築いて行くために、一人ひとりができることをなしていきたいと思います。

2017年7月11日 部落解放祈りの日(聖霊降臨節第6主日礼拝) 笹井健匡牧師

「祈りによらなければ」 マルコによる福音書9章28~29節

わたしが10年間育った教会では、1年365日、早天祈祷会があり、何かの行事をするときには必ず準備祈祷会を持っていました。教会に泊まり込む祈りの集いもありました。しかし、しだいにわたしは祈らなくなり、祈りより行動が大事、という若者特有の考え方を持つようになりました。

しかし今55歳になって思うことは、祈りがいかに大事であるか、だれかに祈られていることが、どれだけ大きな力となるかということを思い知らされています。もともとイエスさまにおいては、祈りと行動はひとつのものだったに違いないありません。祈りつつ行動する、祈りが行動になっている、それが本来のあるべき姿なのだろうと思います。

今日の聖書のところでは、大変な難病をわずらっている人が登場します。古代の世界観では、多くの病は悪霊の仕業でした。ですから、イエスさまも弟子たちに悪霊を追い出し、病をいやす権能を授けておられたのです。しかしこの悪霊は追い出すことができなかったのです。質が悪いというか、強力な悪霊だったのだと思われます。イエスさまは、この種のものは、「祈りによらなければ」決して追い出すことができないと言われました。ここに祈りの力がよく表わされています。逆に言うと、大変な悪霊であっても、祈りによって追い出し、その病をいやすことができるということです。

私は神学部の前に、心理学部で学んでいました。出来の悪い、ひどい学生でしたが、ゼミの指導教授のたぶん最初の授業は今も忘れられません。意識と無意識の話でした。無意識は別名大衆意識とも言って、みんなとつながっていると言われました。後から考えると、100匹の猿が芋を洗って食べたら、全然つながりのない遠くにいる猿が同じように、芋を洗って食べるようになったというのも猿にも無意識、大衆意識があり、それがみんなとつながっているからこそなのだと納得できました。

祈りは、この無意識、信仰的に言えば、魂に働きかけるのだと思います。何人なのかは分かりませんが、ある一定の数に達したとき、祈りの力によって、奇跡が起きるのだと思います。教会に集う者が、心を一つにして祈ることが大切です。
いや、そのような、祈りによらなければ、教会は教会たりえないのだと思います。

神さまに祈り、そして互いのことを覚えて祈り合うとき、神の御業が私たちの上に、人間の想いを越えてなされるのだと思います。

共に祈りを熱くして生きたいと思います。

2017年7月2日 聖霊降臨節第5主日 笹井健匡牧師

「敵を愛せ」 マタイによる福音書5章43~48節

今日の聖書には、「・・・敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」というイエスさまの言葉が記されています。誰かが私たちの敵となり、憎しみを向け、傷つけたとしても、憎しみを持ち、復讐するのではなく、むしろ「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と言われるのです。

黒人解放運動の指導者であるキング牧師は、「われわれは人種差別を嫌悪しつつ、一方では人種差別主義者を愛すべきである。これこそが愛されるべき社会を創造する唯一の道なのである。」と言っています。また、南アフリカ共和国において、アパルトヘイトに反対して、政治活動を行ったアラン・ペイトンは、アッシジのフランチェスコの平和の祈りの中の一節「憎しみのあるところに愛を」から、「私たちの心からすべての憎しみを取り去ってください。また他者の心から憎しみを取り去る方法を教えてください。・・・私たちの社会の中で、何がそれを克服することを困難にしているんかを示してください。」という祈りの言葉を引き出しています。現在、南アフリカ共和国のアパルトヘイトは廃止されています。また、アメリカの前大統領は黒人初の大統領オバマさんでした。闘いの成果というのは証明されているように思えます。しかし、現代においても、未だに黒人差別は残存しています。完全に差別が無くなる日まで、真の闘いは続けられていくことだと思います。

「敵を愛する」ということは、自分の中で葛藤、闘いがあります。なかなかクリアすることが難しいものです。しかし、私たちはそのような時、イエスの十字架を思い起こさなければいけないと思わされます。ルカによる福音書23章24節には、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないのです。」という十字架上のイエスの言葉が記されています。イエスさまは、自分の十字架の死をもって、愛すること、特に敵を愛することを、教えられたのだと思います。自分を十字架につけた人々をも赦し、愛し抜かれたのがイエス・キリストでした。このイエスさまを思う時、私たちの心の中にある、誰かに対する憎しみは消えてなくなるのではないかと思います。そして、人を憎む前に、自分の内面を見つめ、本当にイエスさまに従う歩みをっしっているのか、との問を自分に向けなければならないと思わされます。

自分の周辺にいる「敵」、社会悪と思われる「敵」を愛することは、本当に難しいことではありますが、人の投げる憎しみ、また人との対立、そして、差別、抑圧の中にあって、真実の勝利を得る者でありたいと思います。

2017年6月25日 聖霊降臨節第4主日 平島禎子牧師