• 記事検索

RSS

私たちの聖書の多くの部分を占めるのは、旧約聖書です。そしてそれはユダヤ人という一民族の宗教の記録です。ほんとにつくづく不思議な民族であると思います。しかしどこか親近感を覚えるのも事実です。近い将来、遺伝子の研究等がもっと進んで、いろいろなことが明らかになるかも知れません。

ユダヤ民族が存続した理由はいろいろありますが、やはり律法が大きい要因ではないかと思います。エゼキエルの関係で言えば、紀元前597年の、第1回バビロン捕囚中、比較的いろいろな自由が許されましたが、それでもやはり宗教的祭儀はできませんでした。そういう状況の中、安息日と割礼が、民族の信仰とアイデンティティを保持したのだと思われます。

バビロンで捕囚生活を送る中、紀元前586年、エルサレムが陥落し、本格的なバビロン捕囚が行われます。このことを知ったエゼキエルはじめ捕囚の民は、絶望のドン底に突き落とされたのではないでしょうか。まさに今日の聖書にある、「枯れた骨」状態です。

人間的には、さすがにもう復活できない、と思われる状態になっても、しかし神の意志であるならば、もう一度生き返ることができるのです。

教会に連なっていると、いろいろな不思議な話を聞きます。まさに「生き返る」というような体験も聞きます。一番印象に残っているのは、九州の教会の、男性信徒の方の話です。子どもの頃、海水浴でおぼれそうになり、ああ、自分はもう死ぬのかな、と思われたそうですが、そのとき、だれかわからない、ある人が、自分の体を下から上に持ち上げてくれ、そして背中を押して、岸まで運んでくれたそうです。気が付くとだれもいなかったそうです。

常識的に考えると、絶望し、あきらめてしまう場面で、しかし想像を絶する力により、生き返る、ということがあります。南北に分裂し、先に滅んだ北王国に続いて南王国もここまでか、ついに滅ぶのか、というこの瀬戸際で、神さまの力が働いて、ユダヤ民族は生き返り、そして半世紀を経て、紀元前539年、故郷に帰ることができたのです。

状況が悪化してくると、どうしても“近く”しか見えず、神さまを忘れがちですが、人智を越えた神さまの視点からすれば、いや、まだまだ大丈夫、生き返ることができる、ということがあるのかも知れません。私たちをこよなく愛し、守り導いて下さっている神さまにこそ信頼し、明日を信じて生きて行く者でありたいと思います。


2021年6月27日 聖霊降臨節第6主日礼拝 笹井健匡牧師


  教会の花壇の花たち、雨に濡れて美しく咲いています。梅雨入りと同時に、紫陽花が咲き始め、ミルトス、そしてついに、アガパンサスが咲き出しました。咲き誇る花たちを見ていると、神の愛を感じます。

 今日の聖書は、有名な「愛敵」のところです。もともとユダヤ教では、隣人愛が勧められていました。しかしその場合、隣人とはイスラエルの同胞を意味していました。そして敵は憎め、と教えられていたのです。

 イエスさまはそんな隣人という概念、考え方を、超越されます。有名な、ルカ福音書の「あるサマリア人のたとえ」では、民族を越えて、自分の方から隣人になって行くべきことが教えられています。隣人と言う概念の垣根を無限に拡大し、もはや敵も味方もなく、すべての人を愛すべきことが教えられているのです。

 そこからイエスさまが示された神は、善人も悪人も分け隔てなく愛されるお方であることが語られるのです。太陽、雨というのは天の恵み、天の愛の象徴です。天から見れば、人間の個々の違いなど、ほんの些細なものなのかも知れません。

 私たちが児島教会に赴任してから7年間に、藤岡友幸牧師を含めると7名の方々が天に帰られました。地上では、いろいろ大変なことも経験されたことと思いますが、今は天にあって、永遠の安らかな時を過ごしておられます。きっと、天の愛いっぱいの、美しい、すばらしい日々なのではと想像します。

 天上の姉妹兄弟たちは、それぞれ地上での姿をはるかに超越した姿に変えられているのではないかと思います。そうするとイエスさまは、どんなすごいお姿になっておられるでしょうか。

 私たちが知りうる限り、イエスさまこそこの地上での、天の愛の体現者です。しかしやはり生身の人間としての限界はありました。肉体的な制約や、時間空間の制約が全くない天に帰られたわけですから、地上でのイエスさまの愛をさらに深く広くした愛、天の愛そのものとなられたのではないでしょうか。

 私たちの救い主は、天の愛です。人間の小さな違いや、些細な事柄に一喜一憂する愚かな者ですが、心を高く上げ、イエスさまを見て、その愛をいただき、そのいただいた愛をもって、自分自身と周りの人々を愛して行く歩みを続けて行きたいと思います。

 

2021年6月20日 聖霊降臨節第5主日礼拝 笹井健匡牧師


説教題「今を生きる」 マタイによる福音書6章28~34節


今日は花の日(子どもの日)です。美しい花を見ていると、言葉はいらない、沈黙を守っている花の方が雄弁に語っている、そんな思いを持ちます。花鳥風月と言いますが、やっと私も花のありがたさに気が付いたように思います。

今日の聖書は、もちろん栄華を極めたソロモン以上に美しく着飾っている花たちのことに焦点をあてて、取り上げました。しかしイエスさまが一番言われたかったのは、はかない存在たちが懸命に今を生きている、だからあなたたちも、今を精一杯生きればいい、大丈夫、神さまを信じなさい、ということだったのではないかと思います。

31節から34節までが結論になっていますが、その中で、対象となる人々が変化していることを感じます。はじめ、「何を」という言葉には、いろいろある中でどれを選ぶのか、という現代人にも、また今の私たちにも通じる、“選択”に心を奪われている、比較的余裕のある暮らしをしている人々が想定されます。しかし最後には「苦労」という言葉から分かるように、食べる物、着る物に困っている人々が想定されています。それは取りも直さず、イエスさまを取り囲んでいた大勢の人々の中に存在していた、ある一定数の人々だったに違いありません。イエスさまは一般的な教え、一般論を教えられた、その中で、目の前にいる大変厳しい状況下の人々を想い、最後の言葉を言われたのだと思います。明日ではなく、今日を生きれば、それだけで十分すばらしい、という意味を込めて。

私たちは、“はじめ”の人々に該当しますが、しかしそれでも、今のコロナ禍の困難な状況を思えば、やはりイエスさまの最後の言葉は大変心に刺さります。そして、たとえ余裕のある暮らしをしていたとしても、究極的には、今に集中して、今この瞬間を、悔いのないように、花たちに負けないように、命を輝かせて生きることは大切だと思います。この先のことにどれだけ心を使ったとしても、所詮、骨折り損のくたびれ儲け、に終わってしまいます。それよりは、すべてをすべ治めたもう神さまに、必要なことはすべてご存知の神さまに信頼して、今を懸命に生きるほうが、幸せなのではないでしょうか。

明日以降のことは、自分にできる人事を尽くしたなら、後は、全能の神さまにゆだねて、与えられている今を、精一杯花を咲かせるように、輝いて生きる者で

ありたいと思います。その愛の輝きが世界を照らして、自分も、他の人々も幸せにして行く、そう信じて、祈りながら歩みをすすめて行きたいと思います。


2021年6月13日 花の日(聖霊降臨節第4主日)礼拝 笹井健匡牧師


説教題「美しいもの」 使徒言行録3章1~10節


 私たちが住む世界には、美しいものがたくさんあります。神さまが創造された大自然、生きとし生けるすべてのもの、本当に美しいものでいっぱいです。神さまから見れば私たち人間も、本来その美しいもののひとつ、いや筆頭の存在であるのだと思います。

 私が子どもの頃、たくさんの、いわゆるヒーローものが流行っていました。中でも異色だったのは、「デビルマン」という作品です。名前のとおり、このヒーローは、もともと悪魔の国からやってきたのです。それが人間の世界の、美しいものに触れて、悪魔を裏切り、正義の味方となります。そのテレビアニメのエンディング曲の歌詞に、こういう一節があります。

“人の世に愛がある、人の世に夢がある。この美しいものを守りたいだけ。”

 今日の聖書は、有名な「美しい門」の奇跡です。今回は、奇跡そのものよりも、ペトロとヨハネの「持っているもの」に心が惹かれました。この男性は、4章22節によると、すでに40歳を過ぎていました。生まれつき足が不自由で、おそらく、もの心着いてからずっと、この「美しい門」で毎日を過ごしていたのだろうと思います。その人生は、およそ「美しいもの」とは真反対のものだったに違いありません。「美しい門」とこの男性が醸し出すコントラストは強烈です。二人は、まず金銀はない、と言っています。先週学びましたように、誕生したての教会では、一人も貧しい人がいないほど、みんな満たされていました。しかし、必要なもの以外の、余分なもの、まではなかったのです。けれども二人にはかけがえのない、唯一無二の、最も大いなるものがありました。それはイエス・キリストへの信仰です。愛と希望の福音です。それをこの男性にあげたのです。すると驚くべきことに、この男性は癒され、歩き回ったり踊ったりして神を賛美しました。二人が持っていたものは、私たちの中にもある、最も美しいものだったのです。神さまとひとつであった時には、本来人間はみな、この美しいものを持っていたのだと思います。

 すべてをゆだねる信仰、すべてをゆるす愛、すべてを信じる希望、そして心からのとりなしの祈り、この美しいものが、この男性を救ったのです。エルサレム神殿の「美しい門」によっては救われ得なかったこの男性は、イエス・キリストの名によって、その最も「美しいもの」によって救われたのです。その主イエスを信じて、聖霊の導きのままに、共に歩みをすすめて行きましょう。


2021年6月6日 聖霊降臨節第3主日礼拝 笹井健匡牧師