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「アブラハムの笑い」 創世記17章17節 

 毎年のことですが、夏期休暇を終えた後、最初の礼拝奉仕は、緊張するというか、少し違和感があるというか、ちょっと変な感覚を覚えます。
 今日の聖書は、アブラハムが笑ったことが記されています。神さまの言葉に対して笑う場面は、次の18章のサラの方が有名です。10節から、特に13節から詳しくその様子が描写されています。
 このアブラハムの笑いは、苦笑というか、失笑に近いものだと思います。失笑とは、本来、思いがけず吹き出してしまう笑いですが、ここでは神さまに対してなので、わたしは「失礼な笑い」と思います。17節の神さまは、自らのことを「全能の神」と言っておられます。すべてのことを可能にされる方です。しかしこのとき、アブラハムもサラも高齢になり、完全に子どもができない年になっていました。18章11節には、あからさまに書かれています。しかし、神さまは18章14節で「必ず」と言われるのです。
 神さまは、「笑い」そのものを否定されているのではないのだと思います。そうではなく、人間的な知識、常識にのみ心を奪われ、神の言葉に耳を傾けようとしない、その在り方を「よし」とされないのだと思います。だいたい生まれてくる子の名前は「イサク(彼は笑う)」です。そして21章で実際にイサクが誕生したときには、サラは「神は・・・笑いをお与え・・・聞くものは皆・・・笑いを共にしてくれる」と喜びの声をあげています。
 「笑い」とは神さまの奇跡を目の当たりにした人間がするものだとわたしは思います。神さまからの最高のプレゼントです。
 私たちは、苦境の中にあるとき、この世のたたかい、大変な時こそ、大いに笑いましょう。笑いは、力となります。
 児島教会が、アブラハムのように、思わず笑ってしまうような神さまの奇跡を目の当たりにし、その神さまに依り頼んで、互いに助け合いながら信仰の歩みをすすめて行くことができるように、祈りたいと思います。

2016年8月28日 聖霊降臨節第16主日 笹井健匡牧師

「罪を背負って生きれるか」ローマの信徒への手紙3章9~18節 藤原史朗牧師

 若い日々、教会で説かれる罪の意味がよくわからなかった。11月で73歳になろうとする今、罪だらけの自分を知る。
 昨日は、キリスト教作家遠藤周作原作の『海と毒薬』を観ていただいた。大戦末期九州帝大医学部で起きたアメリカ兵捕虜8名の生体解剖の事件が物語のテーマ。
本土決戦を叫ぶ軍の命令とは言え、解剖に臨む医学部教授たちの罪の意識の脆弱さと野望。血液不足の事態が予想され、海水を血液の代用にできるか、内臓の切除と生命の耐久時間は、といった実験。戦争が被害者の立場で語られる中、遠藤は戦争の加害者性を問題にした。
 今日、安倍政権の「戦争のできる国」への加速は目に余る。兵力の不足は奨学金債務返還免除と引き換えの若者で補えが、どこからともなく聞こえてくる世相である。この風潮に抗して戦争の悲惨さを強調しても、安倍首相は動じない、もっと語れと。そういう悲惨な事態を招かぬために軍事と軍事同盟を強化するのだと、彼の積極的平和主義。抑止論を強調して止まない。琉球、アイヌモシリ、台湾、朝鮮、中国、東南アジア各国へと兵を進め植民地下に置こうとした日本の近代化の野望を、彼は侵略戦争だと認めない。曰く「侵略の定義は定まっていない」と。
 そこには、彼の祖父(A級戦犯容疑)らが起こした侵略戦争の罪を故人に代わって背負う気持など毛頭ない。前述の九州帝大生体解剖事件を医学生としてかかわった自己の罪を、背負い続ける医者がいる。その姿に戦争の悲惨さと平和への希求が真に示される。礼拝後、その老医師のドキュメントをTVでご覧いただき、罪を背負うとはどういうことかを学びたいと思う。

2016年8月21日 聖霊降臨第15主日

「裁き合うのではなく」 ローマの信徒への手紙14章13~23節

 折り鶴の少女で有名な佐々木禎子(さだこ)さんは、2歳の時、広島で被ばくしました。7歳の時<熱の出ない肺炎>にかかったものの一命をとりとめ、その後は元気に成長し、特に足が速く、運動会のリレーではクラスを優勝に導くほどでした。しかし、そんな禎子さんに異変が出たのは12歳の時でした。原爆症である白血病が発症したのです。8月に禎子さんの病院に千羽鶴が送られてきて、千羽鶴を折れば願いがかなうと聞き、禎子さんは鶴を折るようになりました。その数は1500羽ともいわれています。しかし、その願いもむなしく、1955年10月25日に禎子さんは家族と友人に看取られ、12歳で天国へと旅立っていきました。その禎子さんを忘れないようにと、同級生たちが禎子さんの像を立てることを思いつき、先生たちも協力し、そしてその輪が広がっていき、1958年に「原爆の子」の像の除幕式が行われました。この像は禎子さんをモデルとした像でありますが、原爆で亡くなった全ての子どもたちのための像でもありました。禎子さんのお兄さんは、「禎子は入院中、痛い、苦しい、助けて、ということを一度も言いませんでした。そして、原爆を落とした国についてうらみがましいことを口にすることはありませんでした。戦後70年が経過しようとする今、過去の戦争の過ちは決して忘れてはなりません。これから先に大事なことは、お互いを認め合い、そしていつくしみ愛おしむ<おもいやりの心>をつなげて、人々の間に心の輪を広げていくことでしょう。その小さな思いやりの芽こそ禎子が折り鶴と共に私たちに残してくれたものだと思うのです。」と言われています。素晴らしい言葉だと思います。「憎まないが忘れない」という心を持ちながらも、恩讐を越えて、互いに思いやりを持つことが大切だと思わされます。
 今日の聖書の冒頭に「もう裁き合わないようにしよう」と記されています。当時のローマ教会の中では食べ物の対立ということが起きていました。17、18節には、「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」と記されています。「飲み食い」を「主義主張」に置き換えますと、「神の国は主義主張ではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」と読むことができるのではないでしょうか。自分の「主義主張」ではなく、聖霊によって与えられる「義と平和と喜び」を求めて生きていく、平和や互いの向上に役立つことを追い求めていく、そのような生き方を私たちは志していかなければならないのではないでしょうか。いくら正しいことでも、自分の正しさをもって相手を裁くということは神さまの御心に反することであると思います。
 戦後71年を明日迎えます。現在の日本が戦争への道を歩み始めている、もはや戦時下だという人もいます。オリンピック、甲子園でわいている世の中ですが、沖縄では高江でオスプレイのためのヘリパッド建設工事が住民の反対を押し切ってなされています。また辺野古についても国が沖縄県を訴える裁判を起こしました。沖縄の米軍基地の強化がなされていることを思います。また、安保法制違憲訴訟も東京を始め、全国各地で、そして岡山でも起こされています。私は全国(東京)の原告となり、笹井先生は岡山の裁判の原告となりました。戦争への道を止めなくてはならない、と思わされます。しかし、相手を裁くのではなく、禎子さんが病床で希望をもって鶴を折り続けたように、私たちもあきらめずに鶴を折っていくような地道な行動をしていかなければならないと思わされます。そのためにも、身近なところから裁き合うのではなく、平和や互いの向上のために役立つことを追い求めていく、そのような者となれるように祈る者でありたいと思います。

2016年8月14日 聖霊降臨節第14主日 平島禎子(よしこ)牧師

「信仰の花」マタイによる福音書5章7節

 1992年8月7日、私の祖母が亡くなりました。大変苦労の多い人生でしたが、子どもたち、そして孫の私たちをとても愛してくれました。おかげで、わたしの父も、まっすぐに育つことができたのだと思います。
 今日は6日の広島と9日の長崎の間の日です。いやがおうにも平和のことを思わされます。今日の聖書は、イエスさまのいわゆる「山上の説教」の冒頭部分ですが、8節までは、当時の人々の状態、英語で言う状態を表す「Be動詞」の人たちの姿を「幸い」と言われています。しかし、今日の9節は「平和を実現する」と行為に対して「幸い」と言われています。英語で言う行為を表す「Do動詞」の人たちの姿を「幸い」と言われているのです。
 これだけ、つまり9節だけ読んでいると、ああそうか、いいなあ、で終わってしまいますが、しかし9節の後には、10節、11節、12節の「迫害」がセットになってついて来るのだとイエスさまは言われたのだと思います。
 「神の子」という、本来イエスさまを表す畏れ多い呼称が使われているのも、
その平和を実現する人々が、旧約の預言者のように、厳しい迫害を受けるからこその、名誉ある称号なのだと思わされます。
 今の日本は、一見平和に見えますが、今回の組閣によって、首相に「ノ―」と言える政治家は「0」となりました。リーダーをイエスマン、イエスウーマンが取り囲んだとき、何が起こるか、それは歴史が私たちに教えてくれている通りです。これからの私たち主イエスをキリストと信じる信仰者の歩みは、非常に大変で、かつ大切だと私は思っています。
 聖書を貫いている一貫とした信仰は、「残れる者」は少数である、ということです。しかし、神さまはその人々を守り、導き、用いて、人類の歴史を今日まですすめて来てくださいました。特に、私たちはイエスさまと、そしてペンテコステ以降の弟子たちの受難を知っている者です。しかも、2000年前と違い、教会の外にも、多くの、平和を愛し、実現しようと日々がんばっておられる方々が
大勢います。
 平和を実現することは、私たちに信仰者にとって、信仰の本質に関わる事柄であり、そして、言わば信仰の花を咲かせることだと思います。イエスさまに従って、平和の花を咲かせることができるように、祈りを熱くしつつ、まずは自分の周りから、そして属する集団、社会から平和を実現して行く者となりたいと思います。
2016年8月7日 聖霊降臨節第13主日 平和聖日 笹井健匡牧師

説教題 「愛」 ヨハネの手紙一4章7~21節

 自分には信仰がある、希望がある、神さまへの愛もある、しかし、人を愛することは難しい、と思うことはないでしょうか。信仰、希望、愛は自分と神との関係で築いていくものですが、愛にはもう一つの要素があります。それは隣人、つまり他者です。愛が最も大切である(コリント一13章13節)ということは、自己中心的・自己閉鎖的信仰を戒めるための言葉であるのかもしれません。
 赦されえない罪をも赦される方として、イエスさまはこの地上に生まれ、死なれたのです。そこに愛があるのです。イエスさまによって、自らの内にある罪が赦されたことを知った者には、大きな喜びがあり、自分もまた愛する者へと変えられていくのです。(9、10節) 神の愛を受けていることを知った者たちが互いに愛し合うならば、目には見えない存在である神さまがわたしたちの内におられるということを感じることができるのです。そして「神の愛がわたしたちの内で全うされる」(11節)ことが起きるのです。
 神を愛するということはたやすいことのように思えるかもしれません。なぜなら神は目に見えず、自分に害を与えないからです。しかし、一人部屋に閉じこもり、聖書を読んで祈る、またキリスト教の本を読む、それは大事なことですが、それだけでは神を愛しているということにはなりません。自己満足のまた自己防衛の信仰です。神を愛するということは隣人を愛することです。(20節)しかし、隣人とは自分にとって好ましい人だけではありません。その中には、何となく合わない人、また自分に対して敵意を持ち、刃を向けてくる人、存在そのものが嫌だと思う人もいるわけです。そのような人を愛せるでしょうか。エーリッヒ・フロムという人は、「誰かを愛するということは、単なる感情ではない。それは、決意であり、判断であり、約束である」「愛は育てなければならない」ということを言っているそうです。愛というのは感情の赴くままの思いや行動ではなく、
愛すると決意すること、判断し、約束するものである、と言われています。そこには理性的な働きがなされるべきなのであるかもしれません。決意し、判断し、約束をもって育てていくものが「隣人愛」なのであるのかもしれません。
 この世で最も大切なものは「愛」です。私たち一人一人、神さまの愛を受け、
互いに愛し合い、そして、宗教にかかわらず、人を愛していく者でありたいと思います。そして、自分は誰からも愛されていないと思っている人に、神さまの愛が注がれていること、そして自分があなたを愛するということを伝える者でありたいと思います。

2016年7月31日 聖霊降臨節第12主日 平島禎子牧師