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 3月29日は児島教会の創立記念日です。今年で75周年になります。創立時から会堂のない教会でありました。1963年に最初の会堂建築がなされました。教会創立から15年後に悲願の会堂が与えられたことは、大きな喜びであったことと思います。しかし、会堂のなかった15年もの間、礼拝を守り続け、伝道をなし、教会学校も青空教室という形で活発に行われていたこと、また、教会に連なる人も増えていったということは、本当に素晴らしいことであったと思います。今日の聖書に「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(24、25節)と記されています。会堂がなくても、希望を捨てずに15年間がんばってこられた、またそこには喜びもあったからこそ、会堂が与えられたのだと思います。「日本基督教団児島教会三十年誌」において、三十年間の教会の歴史を知ることはできるのですが、その後の45年の歴史を知ることができないのは残念なことです。児島教会の現状は厳しいものがあります。しかし、教会の歴史の中で、教会との関わりを持った人たちが帰ってくる、また、新しい枝が起こされる、そのことを信じて、私たちは現在の苦しみを忍耐し、希望を持ち続けなければならないと思います。

 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(28節)とパウロは言います。苦しみの中にあっても希望を持つことができる、自分の力では祈れないような時には、霊が執り成しをしてくださる、そして、神に召された者たちには、万事が益となるように働くのだ、と言うのです。サマセット・モームの「人間の絆」という小説の中で、人生はペルシア絨毯のようなものだ、最も苦しかった時が最も美しい色模様で仕上がっている、というようなことが記されていました。人生という絨毯を紡いでいる私たちは、どのような色模様で仕上がるのかは、人生が終わる時にしかわかりません。同様に教会もまた、大きな絨毯を紡いでいます。これまでの色模様はどのようなものでしょうか。もしかしたら、今の時期こそが、最も美しい糸で織られているのかもしれません。つらかったことも、苦しかったことも、万事が益となるように、神さまが、イエスさまが導いてくださいます。そして、常に聖霊が支えてくださっています。

 現在の教会の状態にあって、苦しみや諦めの中に埋没することなく、この教会の未来への希望を持ち続けるならば、現在のこの時を過去の歴史の連続性の中で捉えるならば、万事が益となっており、今、この時もまた「益」となっている、と言えるのではないでしょうか。

 「万事が益となる」ということを教会の歴史から学ぶと共に、教会の今を生きている私たち一人ひとりが、今この時も「益」となっているのだ、ということを信じて、見えない希望を待ち望んで、76年目の歩みを始める者でありたいと思います。


2023年3月26日 教会創立75周年記念礼拝 受難節第5主日(復活前第2主日)

                             平島禎子牧師


説教題「 栄 光 」 ルカによる福音書9章28~36節

 

 受難節(レント)の歩みも、前半を終えました。それぞれに克己の歩みをすすめて来られたと思いますが、いかがだったでしょうか?

 私は、今年は例年にも増して、結構大変だったのですが、水曜日の祈祷会の後、午後に再び教会に行ったときに、解決を与えられました。やはり祈りの力というのはすごいなあと、実感させられました。

 今日の聖書は、イエスさまの姿が光輝く「山上の変容」の場面です。ルカは、マルコの内容を踏襲しながらも、それに「祈り」をプラスしています。それも、わざわざ2回も、です。ルカは、この栄光の出来事の一番の土台に、イエスさまの祈りがあることを記したかったのだと思います。この驚くべき変容は、そしてイエスさまの栄光の姿は、その祈りの力によって起こされたのです。

 目を疑うような場面描写ですし、証人は3人だけなので、にわかに信じがたい、と思ってしまう出来事です。しかし「信徒の友」の聖書日課にもありますように、ペトロ二1:16~18にも伝えられていますので、やはり何らかの、驚くべき事柄があったと素直に信じる方が、いいのかも知れません。

 1回目と2回目の受難予告に挟まれているこの個所は、受難とは反対の「栄光」に彩られています。それは主のご受難は、負の出来事で終わってしまうものではなく、最後には「栄光」に変えられるのだということを表しているように思います。モーセ、エリヤ、そしてイエスが栄光に輝き、記されてはいませんが、最後には神がその声をもって、栄光を現されたのだと思います。

 31節にある「最期」は、「エクソドス」(出発、旅立ち)という言葉です。もちろん、直近のこの後のエルサレムでの最期のことではありますが、それに留まりません。十字架の死で終わるのではなく、その後復活と昇天があります。最期の最期は、天へと旅立っていくのです。それはこの世のすべてのものに勝利された、天への凱旋です。

 この世的には最も悲惨で、惨めで、敵だけでなく、弟子たちからも裏切られ、捨てられたような最期を遂げられますが、しかし神は、そのイエスをこそ、真の勝利者として復活させられ、そして天へと迎え入れられたのです。

 これが私たちの救い主であるイエスさまです。だから大丈夫です。迷い多い、欠けの多い、弱い私たちですが、このイエスさまについていくレント、克己の歩みを受難節後半も、祈りを熱くして進めていきたいと思います。

 

  2023年3月19日 受難節第4(復活前第3)主日礼拝 笹井健匡牧師


 イエスさまは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者から排斥され、殺され、三日目には復活することになっている。」(22節)と受難予告をされました。「必ず」という言葉は、神さまの意志の必然と聖書の成就を表しています。「苦しみを受け」、「排斥され(捨てられ)」、「殺され」、「よみがえる」ということは、神さまの意志として「必ず」ご自身の身に起こることである、と言われたのです。「排斥され」と訳されている言葉は、口語訳聖書では「捨てられ」と訳されています。ボンヘッファーは、「苦しみを受けることと捨てられるということは同じではない。苦しみは悲劇的なこととして、なおそれ自身の中に独自の価値と名誉と品位を持つことでもありえよう。イエスはしかし、苦しみの中で捨てられたキリストである。捨てられるということは、苦しみにつけられていた品位や名誉などを奪う。イエスは神の必然によって、苦しみ、捨てられなければならない。」と言っています。イエスさまが経験する受難とは、英雄的な苦しみを伴うものではなく、価値なきものとして捨てられる、すべてがはぎとられる救いようのない苦しみである、と言われているのではないでしょうか。そのような苦しみを受けたにもかかわらずメシアであるというのではなく、そのような苦しみを受けたからこそメシアである、と言えるのだと思います。

 イエスさまは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。」と言われます。受難予告に続いて、弟子たちの在り方、私たちの在り方が述べられているのです。自分の十字架を背負って、日々、イエスさまについていくようにと言われます。十字架を背負う私はつらいけれども、また、それは日々続くのだけれども、私の前には、イエスさまがおられる、受難されたイエスさまが前にいてくださる。そう思えば、自分の背負っている十字架を受け入れることができるようになるのではないでしょうか。

 受難予告をされたイエスさまの思いを知り、真のメシアとは受難のメシアであり、そのメシアについていくということはどういうことなのかということを胸に刻み、それぞれに自分の十字架を背負って、受難のイエスについていく者でありたいと思います。


 2023年3月12日 受難節第3主日(復活前第4主日) 平島禎子牧師


 私たちが信じる神(旧約新約共通)は、自らを現される神です。アブラハムにも(創世記12:7、17:1、18:1等)、モーセにも(出エジプト3:1~)現れられました。

 そしてついに私たちの主イエスが、真の人&キリストとして、この世に現れて下さったのです。さらに十字架の死後、復活の主となって多くの人々に現れ、最後にパウロにも現れられたのです。

 パウロは生前のイエスを知りませんでした。それどころかそもそもクリスチャンを迫害していたのです。それが「使徒」とされたのでした。自らが使徒であることを明らかにするため、パウロは自らの宣教している福音は、人からではなく、復活の主から与えられたものだったと主張したのです。使徒言行録9章にはその場面が印象深く描かれています。

 今日の聖書でパウロは、その体験を「啓示」と言っています。16節には神がイエス・キリストを示してくださった事が、より大きな視点で述べられています。そして2章2節には、その後、エルサレムへ行ったのも「啓示」によるものだったと言っているのです。

 まさにパウロの信仰者としての生涯は、啓示に始まり、啓示によって歩み続け

た生涯だったと言えると思います。あのような「すごい」、神と共なる歩みは、常に啓示によって導かれていたのです。

 こう言うと、何か私には関係ない、私には啓示などない、という声が聞こえてきそうです。しかし本当にそうでしょうか。神さまはアブラハム、モーセ、パウロには分かりやすい仕方で「啓示」されましたが、実は私たちにはもっと分からないような仕方で、やんわりと、知らない間に、意識しないように、「啓示」が与えられているのかも知れません。聖書や、讃美歌や、信仰の友の姿や、何気ない日常の一コマの中に、「啓示」が隠されているのかも知れません。

 必要な時、神は大胆な「啓示」をなされますが、そうでないとき、神さまは静かに、人知れず、優しく「啓示」を与えていて下さるのかも知れません。それは、それで十分だから、それが一番いいからだと私は思います。

 混迷を深める時代のただ中にあって、必要以上に「啓示」を求めたり、あるいは「啓示」を他者に誇示したりすることなく、静かに小さき神の声を、そこにある「啓示」を聞き分け、信仰の歩みを進めて行く者でありたいと思います。

 

    2023年3月5日 受難節第2主日礼拝 笹井健匡牧師