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 今年も最後の日、最後の日曜日となりました。今年は大きな変化が起きる予感がありましたが、何とか無事に今日を迎えることができたことを、神さまに心から感謝したいと思います。
 12月21日(木)(1994年、狭山事件の石川一雄さんが仮出獄した日)に、鷲羽山の頂上に初めて登りました。皆さんから聞いていた通り、いやそれ以上でした。360度の眺望は、それはそれは素晴らしいものでした。あまりの気持ちよさに、しばらく頂上の岩の上に立っていると、ひとつの映像が頭に浮かびました。それは今日の聖書の羊飼いたちでした。 -中略ー
 当時の羊飼いたちは、大変厳しい労働環境にあったと思われます。その昔、ダビデも羊を飼っていましたが、あのアブラハムのに始まる遊牧民の時代とはかなり違うものになっていました。エルサレムに住む大土地所有者の家畜である羊たちを安い賃金で雇われて過酷な労働をする、それがイエスさまの時代の羊飼いたちでした。皇帝や総督とは真逆の世界に生きていた人々でした。
 そんな羊飼いたちに天使、天の大軍が現れたのです。彼らは急いで、赤ちゃんイエスのところへ行きます。「飼い葉桶」に寝ている、このしるしは彼らにとって大変朗報だったと思います。もし大きな屋敷なんかにいたら、恐れ多くて会いに行けなかったかも知れません。
 そして天使のお告げ通り、飼い葉桶に寝ている赤ちゃんイエスに会い、神を賛美しながら帰って行ったのです。14節の天の大軍の、神への賛美に呼応するかたちで、地上での賛美を羊飼いたちがなしたのです。クリスマスの出来事、それはイエスさまの誕生によって、まさに天と地が、神への賛美で結ばれた出来事でした。神の栄光により、地上の真の平和が実現した出来事と言ってもいいと思います。
 しかし、最初のクリスマスを聞いた人々にとっては、それは不思議なことでした。イエスさまを信じていない人々にとっては今もそうかもしれません。しかしこうして教会に集い、いつも神を賛美している私たちにとっては、羊飼いたちと同じように、この上ない、うれしい出来事です。「あなたがた」(11節、12節)と繰り返されているように、「わたしたち」にとって最高の喜びの知らせ、このクリスマスを、羊飼いたちのように、周りにいる人々に伝えて行きましょう。そして神さまを心から賛美しながら、2017年を送り、2018年を迎えましょう。

2017年12月31日 降誕節第1主日礼拝 笹井健匡牧師

 クリスマスおめでとうございます。
 あれから約2000年後を生きる私たちにとって、クリスマスは最高にうれしい、喜びの日です。しかし最初のクリスマスは、暗い世相の中にともされた、ほんの小さな灯でした。ごく少数の人たちしか知らない、世界の片隅で起きた、ほんのささいな出来事だったのです。
 アドベントを歩みながらみてきたように、クリスマスの出来事が成就するには、マリアとヨセフの信仰と愛に基づいた、勇気ある決断が必要でした。神さまは自らの愛してやまないひとり子を、この世の中で、最も小さな存在と言っていい、マリアとヨセフにゆだねられたのです。二人を通して、偉大な業を、この地になされたのです。
 時は、ローマによる、最初の住民登録のときでした。植民地であったユダヤの人々はそれに従わざるを得ませんでした。ベツレヘムへの旅は、屈辱と不安の旅だったに違いありません。これからローマの支配が、いよいよ厳しさを増してくる予感をイスラエルの民は感じていたことでしょう。
 しかしマリアとヨセフは心を通わせ、妊娠中の困難さを抱えながらも、それでもそこに神の導きを信じてベツレヘムへと旅をしたのだと思います。それまで神が導かれたように、この後も必ず、神が自分たちを導いて下さることを信じて。
 おそらくベツレヘムは多くの人で混み合い、住民登録の手続きに時間がかかっている間に、マリアが臨月を迎え、イエスを出産することになったのだと思います。しかも宿屋に泊まることができず、生まれたばかりの赤ちゃんイエスを、馬小屋の飼い葉桶に寝かせました。
 主イエス・キリストの誕生は、およそ救世主の誕生にはふさわしくない環境で起こりました。王宮ではなく、都エルサレムでもなく、小さな町の、しかも人間が寝起きする場所ではない馬小屋で。
 神は、私たち人間を救うために、御子を、この世の最も低きところ、貧しきところに誕生させられました。真の救いは「下から」始められたのです。そしてその後の地上での歩みにおいて、救いの意味が新たにされて行きました。
 マリアとヨセフはベツレヘムへの旅を、神と共に歩み、そして見事にその大役を果たしました。私たちもそれぞれの人生において、神さまと共に、与えられた役割を果たして行く歩みをすすめて行きたいと思います。

2017年12月24日 クリスマス礼拝 笹井健匡牧師

 「マリアの賛歌」は旧約からの「賛美の歌」の伝統でとらえることができます。(出エジプト記15章19~21節のミリアムと女たちの歌と踊り、サムエル記上2章1~10節のハンナの祈り等)「マリアの賛歌」は「ハンナの祈り」がベースになっているとも言われています。ユダヤ家庭において、「ハンナの祈り」は聞き継がれてきたのかもしれません。聖書は父権制社会の中で記されてきました。もしかしたら大きな働きをしたかもしれない女性がいたかもしれないのに、それを消している、またそれを矮小化させているところがあるのではないかとも思わされます。しかし、注意深く聖書を読んでいくと、消そうとしても消すことができなかった女性たちの歴史というものがあったと思わされます。
 マリアはハンナの祈りと似た内容を持つ歌を歌いました。思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。(51~53節) つまり、この世の価値観を逆転させる神の力を歌った、反権力、反貧困の歌であると言ってもいいと思います。ハンナの祈りで似た内容があったということもあるでしょうが、マリア自身も当時の社会状況がいかにすさんだものであるのかを知っており、それを神さまが正されることを信じていたのだと思います。そしてまた、この歌はイエスさまがどのような方として地上で生きられるのかということも示唆しているように思わされます。
 また、マリアの賛歌の最後に記されている事柄は、イスラエルの長い歴史における神とイスラエルの民との約束であり、そして、マリアの時代から今日までの約2000年という長い歴史の中でイスラエルという民族を超えてイエスさまを通して神さまを信じるようになった者たちが心に刻まなければならない内容であると思います。(その僕イスラエルを受け入れて、憐みをお忘れになりません。わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。54、55節)
 「マリアの賛歌」は、砕かれた謙遜な思いをもって、なされた賛歌です。私たちは、この「マリアの賛歌」を思い、神さまの前にへりくだり、自らの内面を見つめながら、この世にある様々な差別・抑圧の問題、社会の問題と向き合っていかなければならないと思わされます。このアドベントの時期、砕かれた謙遜な心を神さまの御前に持ち、人の世に真実な解放、平和、正義をもたらされる主イエスのご降誕を待ち望む者でありたいと思います。

2017年12月17日 アドベント第3主日礼拝 平島禎子牧師

 先週のアドベント第1主日礼拝で、平島禎子牧師が「マリアの信仰」について詳しく教えて下さいました。救い主イエス・キリストの誕生はマリアの信仰なしには成就しませんでした。
 私たちの信じるヤハウェの神は、人と共に働かれる神です。人間なんかほっておいて、神さまだけで事をなされれば、よりスムーズに事は運ぶと思いますが、それでは本当の意味で人間のためにならないのです。ちょうど親が手を出したい衝動を抑えながら子育てするようなものです。神さまは人間と共に働くことによって、わたしたちを成長させてくださるのです。
 マリアの次に重要な役割を果たしたのはヨセフです。今日のマタイの方ではそのヨセフの果たした役割が記されています。彼は「正しい人」であったと記されています。おそらく律法を忠実に守り、日々神に祈りをささげて生きていたのだと思われます。一般にはエッセネ派であったとも言われています。
 そんなヨセフにとって、今回のマリアとのことは大変な事件だったに違いありません。「正しい人」として、律法に従って、自分以外の子を宿したマリアと婚約解消しようとしたのです。しかしヨセフはそれを「公」にしませんでした。そうすればマリアは石打ち刑に処せられるからです。悩んだ末にヨセフは密かに婚約解消することを決意します。マリアを何とか守りたい、思いやりにあふれた、愛に基いた決断だったのだと思います。もしかしたら自分に火の粉が降りかかってくるかもしれない、しかしマリアを救うこと、愛を優先させたのだと思います。
 そんなヨセフに神さまは夢の中で天使を遣わし、マリアの懐妊は聖霊によること、なので、勇気をもって、マリアと結婚しなさい、と言われました。そして誕生する子が、人々を救うメシアであることをヨセフに告げられたのです。眠りからさめたヨセフは、夢のお告げどおり、マリアと結婚し、やがてイエスさまが誕生するのです。
 神さまは、クリスマスの出来事を成就するために、マリアとヨセフを選ばれました。そしてその選びに応えたマリアの信仰と、ヨセフの愛の紡いだ人と人との勇気ある美しい関係のただ中に、主イエスは誕生されました。
 今年もアドベントのとき、もう一度、自らの歩み、在り方を省み、イエスさまが喜んで誕生してくださるように、それぞれに、共に、備えをなしていく者でありたいと思います。

2017年12月10日 アドベント第2主日礼拝 笹井健匡牧師

 ルカによる福音書にはバプテスマのヨハネの誕生物語も記されています。そのヨハネの母となるエリサベトとマリアは親戚であると記されています。(36節) さらに5節を見ますと、エリサベトはアロン家の娘と記されています。ミカ書6章4節を見ますと、「・・・モーセとアロンとミリアムをお前の民に遣わした。」と記されています。ミリアムは女性であり、きょうだいであるアロン、モーセと共に、神から遣わされた預言者であったのです。マリアをギリシア語で見るとマリアムと発音できます。マリアムというのはミリアムからきているのではないかと思います。聖書によれは、イエスは男系ではダビデの子であり、女系ではミリアムの子であると言えるのではないでしょうか。
 受胎告知と言われる今日の聖書に登場するのは、マリアと天使ガブリエルの2人だけです。マリアは誰に相談することもできない状態でしたが、自分で考え、自分で思い巡らし、最初はそのようなことはありえないと思い、なぜそのようなことが起きるのか、自分はまだ男の人を知らないのに、と答えました。天使は、マリアの親戚のエリザベトが高齢であり、子どもができなかったのに、身ごもっていることを徴として上げ、「神にできないことは何一つない」と語りました。マリアはその言葉を聞き、天使の言うことを聞き入れました。マリアは「主のはしため」と言ったと記されていますが、「はしため」とは不快語です。この言葉は「僕(しもべ)」と訳せる言葉です。つまり、マリアは「主の僕」として、天使の言葉を受け容れたのです。
 また、当時のユダヤ社会では、「婚約している処女の娘が別の男と床を共にするなら、2人とも石で撃ち殺されなければならない。」(申22章23、24節)という律法がありました。マリアもそのことは承知していたはずです。天使が現れ、神の恵によって身ごもったのです、と言っても誰が信じるでしょうか。マリアの決断は命がけのものでした。しかし、マリアは神に絶対的信頼を寄せ、天使の申し出を受け容れたのです。ここにマリアの強い信仰を見ることができるのではないかと思います。
 「神にできないことは何一つない」という天使ガブリエルの言葉を信じて、決断したマリアの信仰に倣い、この世的には不可能であり、どうしようもない事柄であったとしても、「神にできないことは何一つない」ということを信じる者でありたいと思います。そして、マリアの信仰に倣い、私たち一人一人、私たちにしか歩くことができない信仰の道を共に歩んで行く者でありたいと思います。

2017年12月3日 待降節第1(降誕前第4)主日 アドベントⅠ 平島禎子牧師