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 2024年度の信仰目標には、「勇気を出して」という言葉が入っています。今日の聖書の最後のイエスさまの言葉「勇気を出しなさい。」がベースになっています。

 混沌を極める今の世の中にあって、イエスさまから、その言葉から力を与えられて歩んで行きたいと思ってのことです。「勇気」について考えているうちに、あらためていろいろなことを思い出させられました。

 今日の聖書は、最後の晩餐におけるイエスさまの長い言葉、言わば遺言の最後のまとめの言葉です。「これから」弟子たちが経験することを前もって語られたのです。それは怖がらせる為、恐怖を抱かせるためではなく、33節にあるように、平和を得る為、つまり心の平安を得て、安心するためです。

 「勇気を出しなさい」という言葉は、あの湖の上を歩くイエスさまの場面では「安心しなさい」(マルコ6:50)と訳されています。つまりここで言われている「勇気」とは決して「根性」的なものではなく、絶対的な心の安静、落ち着いた静かな力強さを持つ不動の心に近い感じです。何事が起きても、何者によっても揺さぶられない、ぶれない芯の強さのようなものです。

 イエスさまがあらかじめ「これから」のことを語られたのは、事が起こったときに、弟子たちが信じることができるためでした。そうでないと、全くの想定外である、十字架刑でイエスさまが亡くなることは、あまりにも受け入れがたいことだったのだと思います。

 そして今日のこの「勇気を出しなさい」という言葉は、十字架と復活の後の、聖霊によって弟子たちが為していくことになる伝道についても言われているのだと思います。何もしなくても生きることは大変です。ましてイエス・キリストを宣べ伝えることは、ものすごい困難なことだったと思います。だからこそ、落ち着いて、静かに、安心して行いなさいと言われたのだと思います。

 私たちも状況は違いますが、いろいろな困難を抱えて生きている者です。またこの先もどんなことが待ち受けているか想像もできませんが、しかし世のすべてのものに勝利されたイエスさまが私たちの救い主です。その言葉に励まされ、私たちも勇気を出して、この一年も共に歩みを進めて行きたいと思います。

 

    2024年4月28日 復活節第5主日礼拝 笹井健匡牧師


 榎本保郎牧師の「新約聖書一日一章」の中に次のようなことが記されています。「キリスト教信仰は…、中心をはっきり知らなければならない。…イエス・キリストの一点である。」

 イエス・キリストを私たちの生きる中心点として持っているならば、どのような状態に置かれても、イエスとの結びつきは同じ距離なのです。それは、イエスは一方的に私たちを愛してくださる方ですが、私たちもイエスの愛に応答していくということなしには、なされないことではないかと思わされます。

 今日の聖書には、イエスがペトロに三回「わたしを愛しているか。」と問われ、それにペトロが答えていくというイエスとペトロの会話が記されています。ペトロはイエスさまが十字架につけられる前に三回イエスさまを知らないと言いました。それだけに三回もイエスさまに「わたしを愛しているか。」と問われ、心を痛めたことだったろうと思います。しかし、イエスはそのようなペトロを赦し、ペトロのイエスへの愛の応答を確信され、ペトロを教会の群れを導く牧者とされました。そのペトロは、もはやイエスを裏切ったペトロではなく、どこまでもイエスを愛し、イエスに従っていく者となったのです。

 イエスに従うということは、自分にとっていつも快いことばかりではありません。つらく、苦しいこともあります。しかし、イエスと私の距離はどこにいても同じなのです。順境の時も逆境の時も、イエスと私は同じ距離でつながっているのです。どのような状況にあっても、イエスの私たちへの愛は変わらず、私たちのイエスへの愛も変わらないのです。今日の聖書の最後でペトロの最後について言われた言葉は、ペトロの殉教を意味していますが、殉教とは恐ろしいことです。私にはとてもではないけれどもできないと思います。しかし、ペトロをはじめ、初代教会の人達は殉教していきました。日本においても殉教していった人たちがいました。これらの人たちのすごさというのは、イエスへの愛だったのではないかと思います。言語を絶する苦しみにあっても、何ものをもってしても彼ら彼女らの持つイエスへの愛は奪われることがなかったのだと思います。

 イエスは、私たち一人一人を愛しておられます。そしてイエスは私たち一人一人にイエスを愛するように求めておられます。イエスと私との相互の愛の中で、イエスへの応答をなし、与えられた務めを果たしていくことができるよう祈る者でありたいと思います。

 

    2024年4月21日 復活節第4主日 平島禎子牧師


 今日、平川英勝兄は、東京の東美教会に行っておられます。1月26日に召天された故今井敬隆牧師を偲ぶ会に出席されます。私自身も今井牧師から、若い頃「僕仕」を教わりました。直接お聞きしたかどうか記憶があいまいですが、牧師は、何か偉い存在ではなく、僕として仕える存在だと理解しました。それはきっとイエスさまご自身の姿、在り方から来ているのだと思います。

 今日の聖書は、復活の記事の中でも、特にユニークなものです。7人の弟子がティベリアス湖、つまりガリラヤ湖に行き、そこで復活の主イエスに出会ったというのです。すでに2回、復活の主に出会いながら、あまり変化していない弟子たちの様子がはじめに浮かびます。何をどうすればいいのか、まったく分からなかったのだと思います。人はそうした時、昔取った杵柄ではないですが、過去の経験に頼るのかも知れません。

 7人はおそらく夜通し漁をしましたが、何もとれませんでした。だれだか不明の人の言葉を聞いて網を打ってみると、ものすごい大漁でした。その後、復活の主イエスだと気づくのです。エマオ途上(ルカ24:13~35)を思い起します。またマグダラのマリアも最初園丁(ヨハネ20:15)と思っていました。

 陸に上がってみると、なんと炭火が起こしてあり、すでに食事の準備がされていたのです。イエスさまこそ、僕仕の中の僕仕です。弟子たちは生前のイエスさまを思い起したに違いありません。ああ、あのイエスさまだ、という思いで胸がいっぱいになっていたのだと思います。

 3月17日に、約1年かけて準備してきたジャズコンサートを大盛況のうちに無事に行うことができました。当初、どうなることかと心配でしたが、まさに奇跡的にすばらしい会でした。(イエス:「やれるはずだ。」)

 イエスさまは、経験を生かして、夜通しがんばって、それでも何もとれなかった弟子たちにたいして、「とれるはずだ」と言われました。そんなこと言われても、もう無理です、と言いたいところです。ルカ福音書の弟子の召命(5:5)を思い出します。しかしイエスの言葉を信じて、やってみると、驚くべき成果を目の当たりにする光栄にあずかれるのです。

 2024年度も、たとえどんな大変なことに遭遇しようとも、復活の主と共に、また復活の主の声を聴き、その言葉を信じて、信仰の歩みを進めて行く者でありたいと思います。

 

   2024年4月14日 復活節第3主日礼拝 笹井健匡牧師


 2024年度は、昨年度末にすでにイースターを迎えて、復活節から始まりました。苦難があっても、何度でも復活して、新しく歩みだして行く一年にしたいと願います。

 2014年度の信仰目標は、『いつも喜び 絶えず祈り どんな事にも感謝』でした。10年経って、あらためてこのことを心に覚えながら、再出発したいと思います。

 テサロニケの信徒への手紙は、一番若い、パウロの気持ちをよく伝えてくれている手紙です。晩年のローマの信徒への手紙等の重々しさはなく、希望に満ち、先に先にと伝道の歩みをすすめて行くパウロの姿が見えるようです。

 「喜び」については、他の手紙でもたびたび言及しています。フィリピの信徒への手紙は、喜びの手紙と呼ばれています。特に4章4節では、喜びが最高に強調されています。獄中にありながら、彼自身も喜びにあふれ、そのあふれる喜びを他の信仰者にもすすめているのです。使徒言行録16章25節以下には、獄中で賛美の歌をうたって祈っていた時、大地震が起こり獄の戸がみな開いて囚人の鎖もはずれたことが記されています。賛美、つまり神を喜ぶことが、いかに大きな信仰の力であるかを示しています。(使徒5:41も参照)

 「祈り」については言うまでもありません。今回ひとつ示されたのは、定時の祈りの大切さ、それとともにふだん生活している中での、瞬間的な祈りも大切だということです。いろんな人、物事と出会い、喜怒哀楽を覚えるとき、一番に神に祈ることができればいいなあと思いました。特に、怒りを覚えるとき、最近ではよく6秒待って、と言われますが、私たち信仰者で言えば、まず6秒神に祈ってから怒るようになれたら、なんとすばらしいことでしょうか。

 「感謝」について思うのは、目の前で起きていることだけに心を奪われると、感謝できないこともありますが、信仰生活を何十年も続けていると、後で腑に落ちて、どんなマイナスのことであっても、最終的に神のはからいとして、感謝できるという経験をみなさんもお持ちだと思います。

 私たちは自分の人生を喜びをもって生きて行きましょう。その人生には伴侶として、友としてイエスさまがおられます。そのイエスさまと対話して、つまり祈って生きて行くとき、すべてのものは感謝に変えられ、まわりの世界は輝くのだと思います。ともに喜び祈り感謝の一年にして行きましょう。

 

     2024年4月7日 復活節第2主日礼拝 笹井健匡牧師