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「とれるはずだ」 ヨハネによる福音書21章1~14節

 今日、平川英勝兄は、東京の東美教会に行っておられます。1月26日に召天された故今井敬隆牧師を偲ぶ会に出席されます。私自身も今井牧師から、若い頃「僕仕」を教わりました。直接お聞きしたかどうか記憶があいまいですが、牧師は、何か偉い存在ではなく、僕として仕える存在だと理解しました。それはきっとイエスさまご自身の姿、在り方から来ているのだと思います。

 今日の聖書は、復活の記事の中でも、特にユニークなものです。7人の弟子がティベリアス湖、つまりガリラヤ湖に行き、そこで復活の主イエスに出会ったというのです。すでに2回、復活の主に出会いながら、あまり変化していない弟子たちの様子がはじめに浮かびます。何をどうすればいいのか、まったく分からなかったのだと思います。人はそうした時、昔取った杵柄ではないですが、過去の経験に頼るのかも知れません。

 7人はおそらく夜通し漁をしましたが、何もとれませんでした。だれだか不明の人の言葉を聞いて網を打ってみると、ものすごい大漁でした。その後、復活の主イエスだと気づくのです。エマオ途上(ルカ24:13~35)を思い起します。またマグダラのマリアも最初園丁(ヨハネ20:15)と思っていました。

 陸に上がってみると、なんと炭火が起こしてあり、すでに食事の準備がされていたのです。イエスさまこそ、僕仕の中の僕仕です。弟子たちは生前のイエスさまを思い起したに違いありません。ああ、あのイエスさまだ、という思いで胸がいっぱいになっていたのだと思います。

 3月17日に、約1年かけて準備してきたジャズコンサートを大盛況のうちに無事に行うことができました。当初、どうなることかと心配でしたが、まさに奇跡的にすばらしい会でした。(イエス:「やれるはずだ。」)

 イエスさまは、経験を生かして、夜通しがんばって、それでも何もとれなかった弟子たちにたいして、「とれるはずだ」と言われました。そんなこと言われても、もう無理です、と言いたいところです。ルカ福音書の弟子の召命(5:5)を思い出します。しかしイエスの言葉を信じて、やってみると、驚くべき成果を目の当たりにする光栄にあずかれるのです。

 2024年度も、たとえどんな大変なことに遭遇しようとも、復活の主と共に、また復活の主の声を聴き、その言葉を信じて、信仰の歩みを進めて行く者でありたいと思います。

 

   2024年4月14日 復活節第3主日礼拝 笹井健匡牧師


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