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「イエスへの応答」 ヨハネによる福音書21章15~19節

 榎本保郎牧師の「新約聖書一日一章」の中に次のようなことが記されています。「キリスト教信仰は…、中心をはっきり知らなければならない。…イエス・キリストの一点である。」

 イエス・キリストを私たちの生きる中心点として持っているならば、どのような状態に置かれても、イエスとの結びつきは同じ距離なのです。それは、イエスは一方的に私たちを愛してくださる方ですが、私たちもイエスの愛に応答していくということなしには、なされないことではないかと思わされます。

 今日の聖書には、イエスがペトロに三回「わたしを愛しているか。」と問われ、それにペトロが答えていくというイエスとペトロの会話が記されています。ペトロはイエスさまが十字架につけられる前に三回イエスさまを知らないと言いました。それだけに三回もイエスさまに「わたしを愛しているか。」と問われ、心を痛めたことだったろうと思います。しかし、イエスはそのようなペトロを赦し、ペトロのイエスへの愛の応答を確信され、ペトロを教会の群れを導く牧者とされました。そのペトロは、もはやイエスを裏切ったペトロではなく、どこまでもイエスを愛し、イエスに従っていく者となったのです。

 イエスに従うということは、自分にとっていつも快いことばかりではありません。つらく、苦しいこともあります。しかし、イエスと私の距離はどこにいても同じなのです。順境の時も逆境の時も、イエスと私は同じ距離でつながっているのです。どのような状況にあっても、イエスの私たちへの愛は変わらず、私たちのイエスへの愛も変わらないのです。今日の聖書の最後でペトロの最後について言われた言葉は、ペトロの殉教を意味していますが、殉教とは恐ろしいことです。私にはとてもではないけれどもできないと思います。しかし、ペトロをはじめ、初代教会の人達は殉教していきました。日本においても殉教していった人たちがいました。これらの人たちのすごさというのは、イエスへの愛だったのではないかと思います。言語を絶する苦しみにあっても、何ものをもってしても彼ら彼女らの持つイエスへの愛は奪われることがなかったのだと思います。

 イエスは、私たち一人一人を愛しておられます。そしてイエスは私たち一人一人にイエスを愛するように求めておられます。イエスと私との相互の愛の中で、イエスへの応答をなし、与えられた務めを果たしていくことができるよう祈る者でありたいと思います。

 

    2024年4月21日 復活節第4主日 平島禎子牧師


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