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 キリスト教は、契約の宗教と言われます。最も大切にしている聖書も、旧約聖書と新約聖書、つまり古い契約と新しい契約から成り立っています。

 今日の聖書には、契約という言葉が繰り返し出て来ます。”ノアの洪水”を経て神さまは二度と同じようなことはしないと約束してくださいました。そしてそれは16節にあるように「永遠の契約」なのです。

 旧約の契約というとモーセの十戒を思い浮かべる方が多いかもしれません。そこから多くの律法が成立しています。神と人との契約の土台と言っていいものです。しかし実はその前に神と、人間を含むすべての生き物との間に立てられた契約があったのです。しかも永遠の契約です。

 8章21節から、神がご自身に言われた言葉が記されています。非常に意味深な言葉です。わたしは虹が大好きです。子どもの頃は、ただ美しい、珍しい、ということで好きだったのですが、クリスチャンになって、この聖書のところを知ってからは、何かもっと大きなもの、深遠なものを感じながら、大切なしるしとして見るようになりました。

 この「滅ぼさない」という契約は、神が一方的に、言わばご自身と立てた契約ということが言えると思います。神は滅ぼされないのです。ということは、後は人間が自滅する可能性があるということです。わたしは、そのことを回避するために、主イエスが来られたと信じています。主イエスの福音は、徹底した戦争反対にあると思います。

 神さまは、滅ぼさないという契約、つまり平和の契約をしてくださいました。しかしなかなかその平和を実現できないわたしたちに、イエスさまを送ってくださいました。イエスさまは平和の主です。

 第2次大戦以降、最も危険な状況にある今こそ、わたしたちは、戦争はもういい、たくさんだ、平和をこそ望む、の声を大きくしていきたいと思います。

神さまが、いにしえの昔に、平和の契約を立ててくださり、そして2千年前に平和の主イエスを送ってくださったことを覚え、そして今を生きる多くの人々の思いが戦争ではなく、平和を選択して行くように祈りながら、クリスマスまでの歩みを進めて行く者でありたいと思います。

 

       2022年10月30日 降誕前第8主日礼拝 笹井健匡牧師


 第一宣教旅行の中のリストラで、パウロが生まれつき足の悪い男性を癒した時、そこにいた人々は驚き、パウロと同行していたバルナバの二人をギリシア神話の神であると言い、二人に雄牛と花輪とを生贄として、二人に捧げようとしました。しかし、パウロはこのことを聞くと、服を裂いて、群衆の中に飛び込み、「わたしもあなたがたと同じ人間にすぎません。」と言ったのです。パウロは自分たちが偶像化されることを拒否し、自分たちは真の生ける神に人々が立ち帰るようにと、福音を告げ知らせているのだと言い、神の恵を述べたのです。

 「信徒の友」11月号の特集は、「部落差別 水平社宣言から100年に」というものです。

部落差別はあってはならないことです。見えにくくなっていますが、今もまだ差別は存在しています。「信徒の友」の「祈り」の欄で、「自分の故郷や大切にしていることを言えない。それは今でも続いています。差別の言葉、尊厳を傷つける言葉がインターネットにあふれています。…」と記されています。この祈りの中で言われているように、自分の出自を言えない人たちがいます。島崎藤村の「破戒」においてもそのことが記されています。主人公の瀬川丑松は父親から自分の出自を必ず隠さなければならない、という強い戒めを受けます。学校の先生になった丑松でしたが、猪子蓮太郎という被差別部落出身の思想家の影響を受け、ものすごい葛藤を持ちます。そして、自分は被差別部落の人間であることを公表し、学校での最後の授業の時、隠していてすまなかった、と土下座をして謝ります。最後の謝るシーンは必要だったのかな、と思うのですが、丑松の心の葛藤とラストには胸が潰れるような思いを持ちました。被差別部落の人間も部落外の人間も「同じ人間」です。しかし、被差別部落と部落外という表現をしなくていい時代に早くなってほしいと思います。

 パウロとバルナバは、自分たちが神にされることを拒み、「同じ人間にすぎません。」と言いました。パウロは衣を裂いて人間以上の扱いをされるのを拒んだのです。私たちは、人間の水平を求めて、あらゆる人たちと「同じ人間である」と言わなければならないと思います。

「服を裂く」というのは「怒り」の表現でもあります。パウロとバルナバは人間以上のものであると言われることに「怒り」を持ち、「わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。」と言ったのです。「怒り」と持つことも大切です。部落差別、人種差別、その他のいかなる差別に対しても、「怒り」の心を持つことが大切であろうと思います。人間と人間は水平な関係です。その水平な関係を分断しようとする力に対しては「怒り」を持って、闘うということをなすべきではないかと思います。

 すべての人たちは、「同じ人間」であるということを心に持ち、また自分も人と比べられるような人間ではなく、「同じ人間」なのだということを心に持ち、誰に対しても「同じ人間」であると思いつつ、神さまの下で等しい存在としての人間の歩みをなしていく者でありたいと思います。

         2022年10月23日 降誕前第9主日 平島禎子牧師


 6月21日に発症した顔面神経麻痺の治療が、10月5日にようやく終わりました。当初、軽く見ていた病でしたが、鍼灸師の先生から「難治性」と言われたときには、少なからずショックを受けました。また「元通りになるのか?」と不安になりました。この時ばかりは、心から「なおりたい」と真剣に願ったものでした。

 今日の聖書は、バルティマイの癒しを記しているところです。「ティマイの子」という紹介は、理由は分かりませんが、父「ティマイ」が、人々に知られていたことを表していると思われます。

 バルティマイは、「ナザレのイエス」が通りがかったことを聞くと、「わたしを憐れんでください。」と叫び続けました。彼の心の叫びは、ついにイエスさまに届きました。「目が見えるようになりたい」との思いは、おそらく何十年もの間彼の心を支配していたに違いありません。その切なる思いをイエスさまは受け入れられ、癒されたのです。

 ここで少し考えさせられるのは、バルティマイがイエスさまを「ダビデの子」「先生」と呼んでいることです。マルコ12:35以下には、律法学者たちが、メシアをダビデの子と言っているのを、イエスさまは明確に否定されています。

しかしイエスさまはバルティマイに対して「あなたの信仰が‥」と言われました。学問的な解釈においては「ダビデの子」を批判されましたが、大切なのは、そんなことより、イエスさまをどこまで信じているか、イエスさまへの信頼の強さにあることを、今日の聖書は教えてくれているように思います。

 福音書には3回の受難予告がありますが、マルコはそれを二人の目の見えない人の癒しでサンドイッチしています(8:22~26、10:46~52)。イエスの受難に無理解な弟子たちは、言わば「見えない」(8:18)存在です。それに対して二人の目の見えない人は「見えるようになった」存在です。イエスさまはご自身への正しい理解よりも、心からの思い、魂の切なる思いに目を留めて下さいます。弟子たちも、召された時は、そうだったはずです。

 ここにいます私たちもイエスさまと出会った頃は、それぞれに切なる思いを持っていたかも知れません。「なおりたい」「良くなりたい」「救われたい」等の魂の思いをあらためて強くして、信仰の歩みを進めて行く者でありたいと思います。

 

     2022年10月16日 聖霊降臨節第20主日礼拝 笹井健匡牧師


 私たち人間は、時間の中で生きています。今、こうしている間にも時は進んでいきます。その時の進む中で、色々な経験をし、色々な出来事に遭遇し、私たちは、一生前へ前へと進んでいきます。後戻りしたくてもそれは決してできないことです。人は成長していく時、節目、節目において、新しい自分に変わっていくことを自覚するかもしれません。しかし、そのように節目、節目に新しくなった自分、また、他者を発見するかもしれませんが、突然新しい人になるのではなく、日々を積み重ねることによって、新しい人になっていくのです。

 今日の聖書には、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」と9節に記されています。私たちは、主イエスの復活に与っている者たちであります。なので、上にある者を求め、心に留め、地上のことに心を惹かれないようにするべきなのです。上にあるものを求めるということは、私たちが新しい愛と新しい目標をイエスさまを通して神さまからいただくことなのです。

この世にある負の事柄を捨て去り、また、この世にある悪いものでまみれている古い自分を捨て去りなさい、とパウロは言うのです。それぞれの人間には過去があります。過去には楽しいこと、嬉しいこともありますが、嫌な気持ちになる思い出したくもない過去もあります。その中にやましい気持ちになるものもあるかもしれません。過去のそういった負の部分を今を生きるあなたは捨てなさい、古い自分の起こした悪しき事は二度と繰り返してはいけない、それを捨て去りなさい、と言われているのではないでしょうか。

 「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に到達するのです。」と10節で言われています。生活の場において、仕事の場において、教会において、その他の場においても、イエスさまに倣い、愛を豊かにもって生きる新しい人となるように、と言われているのではないでしょうか。新しい人になるというのは一回限りのことではありません。「日々新たにされて」と記されています。新しい朝を誰もが迎えるように、新しい人を日々迎えることができる、日々新たにされて私たちは生きていくことができるのです。そのように人が日々新たにされていくことを知り、真の知識に達するのです。

 全ての人が古いものを脱ぎ捨て、新しい人を身に着けることができます。そこには、あらゆる差別は廃されて(11節)、全ての人にキリストの福音が開かれ、全ての人が神を信じ、古いものを脱ぎ捨て、新しいものを着ることができるのです。

 全ての人が主イエスにあって、「新しい人」になることができます。それは一度限りの出来事ではなくて、日々新しくされ続ける新しい人です。私たち一人一人、主イエスによって神から赦されているものとして、日々新しい人になることができるよう、祈る者でありたいと思います。

      2022年10月9日 聖霊降臨節第19主日 平島禎子牧師


 今日は、世界聖餐日・世界宣教の日です。現在も世界各地で奉仕の業が続けられています。

岡山教会におられた伊勢望牧師は、現在ベルギーのブリュッセル日本語プロテスタント教会で牧会をされています。

 還暦を迎えて、人生を思うことが多い今日この頃ですが、人の人生というものは、本当にいろいろだなあとあらためてしみじみと思わされます。

 今日の聖書の主人公のヨブも、そうです。「天上の法廷」と呼ばれる場面において、それまで「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」ヨブに、サタンが13節以下のような災いを起こして行くことが許可されたのです。それはヨブからすれば、まさに青天の霹靂のような事件でした。この世で考えられる最悪の事態が次から次へと起こされたのです。ここは、通常ヨブの忍耐がテーマとされていますが、果たして本当にそうでしょうか。最後にヨブは、自分の   生まれた日を呪います。

 ヨブは、一見完璧な人のように思えますが、5節の「」をよく読むと、そこには、不安、不信、そして恐怖といったマイナスの感情が隠されているように思います。サタンの災いは、ヨブの心の、この弱さを浮き彫りにしたのかも知れません。そしてもっと大きく捉えるならば、何の失敗も、挫折も、苦しみも悲しみもない人生は、本当の幸せとはほど遠い、味気ない、つまらない人生なのだ、ということを教えてくれているように思います。人生いろいろ、山あり、谷あり、それでこそ、真に豊かな人生ということが言えるのかも知れません。

 神さまは、その人その人にふさわしい経験を与えられます。ヨブも、最終的にはこの経験を通して、以前にもまして祝福されます(42:12)。ここにいます私たちも神さまから与えられたものを、「糧」として、それぞれの人生をより輝かして生きて行きたいと思います。

 

     2022年10月2日 世界聖餐日・世界宣教の日礼拝 笹井健匡牧師