6月21日に発症した顔面神経麻痺の治療が、10月5日にようやく終わりました。当初、軽く見ていた病でしたが、鍼灸師の先生から「難治性」と言われたときには、少なからずショックを受けました。また「元通りになるのか?」と不安になりました。この時ばかりは、心から「なおりたい」と真剣に願ったものでした。
今日の聖書は、バルティマイの癒しを記しているところです。「ティマイの子」という紹介は、理由は分かりませんが、父「ティマイ」が、人々に知られていたことを表していると思われます。
バルティマイは、「ナザレのイエス」が通りがかったことを聞くと、「わたしを憐れんでください。」と叫び続けました。彼の心の叫びは、ついにイエスさまに届きました。「目が見えるようになりたい」との思いは、おそらく何十年もの間彼の心を支配していたに違いありません。その切なる思いをイエスさまは受け入れられ、癒されたのです。
ここで少し考えさせられるのは、バルティマイがイエスさまを「ダビデの子」「先生」と呼んでいることです。マルコ12:35以下には、律法学者たちが、メシアをダビデの子と言っているのを、イエスさまは明確に否定されています。
しかしイエスさまはバルティマイに対して「あなたの信仰が‥」と言われました。学問的な解釈においては「ダビデの子」を批判されましたが、大切なのは、そんなことより、イエスさまをどこまで信じているか、イエスさまへの信頼の強さにあることを、今日の聖書は教えてくれているように思います。
福音書には3回の受難予告がありますが、マルコはそれを二人の目の見えない人の癒しでサンドイッチしています(8:22~26、10:46~52)。イエスの受難に無理解な弟子たちは、言わば「見えない」(8:18)存在です。それに対して二人の目の見えない人は「見えるようになった」存在です。イエスさまはご自身への正しい理解よりも、心からの思い、魂の切なる思いに目を留めて下さいます。弟子たちも、召された時は、そうだったはずです。
ここにいます私たちもイエスさまと出会った頃は、それぞれに切なる思いを持っていたかも知れません。「なおりたい」「良くなりたい」「救われたい」等の魂の思いをあらためて強くして、信仰の歩みを進めて行く者でありたいと思います。
2022年10月16日 聖霊降臨節第20主日礼拝 笹井健匡牧師