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 キリスト教2000年の歴史を表現する言葉は、いろいろあります。その一つが殉教です。また日本では、隠れキリシタンの歴史があります。それらを大きく捉えると、「苦しみ」です。

 信仰の対象である主イエス・キリスト自身が苦しみを苦しみ抜いた存在です。

メシア、救世主であるイエスさまはその苦しみによって「実り」をもたらされました(イザヤ53:11)。そしてその実りがキリスト教です。

今日の聖書は、黒海と地中海に挟まれた、今で言うトルコ半島の諸教会に宛てられた手紙です。著者、年代ともはっきりしませんが、明らかなのは、背景に

迫害があることです。少し前の、9節の「悪」「侮辱」、そして今日の聖書の「義のための苦しみ」(14節)、「弁明」(15、16節)、「ののしる者」「悪口」(16節)等は、迫害がかなり厳しく、日常的に行われていたことを想起させます。

 本来は、13節にあるように、善行をしている人が苦しむことはおかしいことであり、あってはならないことです。しかし現実の世の中というのは、そうした不条理が横行しています。

 14節にあるように、現実の悪を指摘し、それを改善しようとする方向性を持つ、言わば預言者的義人は、いつの世にあっても、迫害されるのです(マタイ5:  10~12)。

 キリスト教の親宗教とも言うべきユダヤ教は、大きく分けると、二つの信仰の潮流があります。一つはレビ人、祭司等に代表される、祭司的伝統です。もう一つは、預言者的伝統です。イエスさまは、後者に属し、祭司たちから迫害されました。キリスト教もその流れにありますので、大きく言うと預言者的宗教と言えると私は思っています。

 しかし、弱い私たちは、なかなか預言者のようには生きられません。14節は、裏返すと、弱い私たちは、人々を恐れ、心を乱す存在であることを前提にしています。だからこそ、そんな時こそ、心の中でしっかりとイエス・キリストを主と告白しましょう。そしてそこから聖霊の力をいただき、静かに、愛に満ちた言葉をもって、相手の魂に語りかける者でありたいと思います。それが広い意味での伝道につながるのだと思います。

 キリストに結ばれた善い生活は、無敵です。イエスさまに救われた私たちは、どうせ苦しむなら、悪ではなく、善を行って苦しむ人生を送りたいと思います。

 

  2023年7月30日 聖霊降臨節第10主日礼拝 笹井健匡牧師


 2節に「エボディアとシンティケ」という二人の女性の名前が出てきます。パウロは公の手紙の中で、この二人に対して、「主において同じ思いを抱きなさい。」と言っています。この二人はフィリピの教会の中で重要な位置を占めていたのだと思います。この二人の不和は、教会にとって、キリスト教伝道にとって、深刻な打撃になるだろうとパウロは考えたのだと思います。3節では、パウロは「真実の協力者」と呼んでいる人物に対して、この二人の女性を助けるようにとの願いを記しています。そしてパウロは、「この二人の女性たちが、過去に、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のために自分と共に戦ってくれた」ということを述べます。初期の教会では、フィリピの教会もそうであったと思いますが、女性たちも教会の中心的な存在として働いており、男性たちと共に力を合わせて福音のために戦っていたのです。

 教会は福音宣教のために労を同じくする者、「同労者」の集まりです。3節に2回「協力者」という言葉が出てきます。口語訳聖書では、後の方の「協力者」を「同労者」というふうに訳してあります。私は協力する者というよりは、同じ労をとる者というふうに表現する方がいいのではないかと思いました。3節に記されている事柄は、同労の仲間として、今まで支え合って頑張ってきたこと、また問題が起きている今も同労の仲間として、支え合うように、ということではないかと思います。当時のフィリピの教会というのは、信仰を同じくする者が集まっていた共同体であり、その中で人望のある人たち何人かが、リーダー的役割をしていたのであろうと思います。エボディアとシンティケの二人もそのようなリーダーの中に入る人たちであったのだろうと思います。そして、教会に集う一人一人が主にある同労者として、それぞれに与えられた賜物を生かし合っていたのではないかと思います。

 主にあって教会に連なるようになった一人一人が、福音宣教の「同労者」です。イエスさまによって救われた者として、神にのみ信頼する信仰を持ち、主にある姉妹兄弟を同労者として、互いに励まし合い、支え合い、喜びや苦しみを共にしていく、そのような同労者たちの集まる共同体に教会がなれるよう、祈る者でありたいと思います。


  2023年7月23日 聖霊降臨節第9主日 平島禎子牧師


 聖霊降臨節、聖書で言うと、使徒言行録から手紙の一番の中心人物は、やはりパウロです。パウロというと、通常大伝道者というイメージが強いです。そしてローマの市民権を持ち、もともと高名な律法学者ガマリエルの弟子であった、言ってみれば、かなりのエリートのイメージです。

 しかし今日の聖書は、そのパウロの職業は、テント造りであったと記しています。それは皮革製品の職人です。多くは、奴隷身分の人たちが従事する過酷な労働でした。今で言う、3K労働のようなものです。どういういきさつでそうなったのかは、不明です。以前は、律法学者の生き方と言われていました。または、親から受け継いだ職業の可能性も否定できません。第3の可能性、それはパウロが伝道者として自ら選び取った職業ということです。

 ご存知のように、パウロは、もともと迫害者でした。伝道者になった彼には依然として過去の大きな罪責の念があったと考えられます。それは彼の強い信仰と表裏一体のものでした。先週述べました服部団次郎牧師は、沖縄を見捨てたとの強い罪責の思いから、筑豊の炭鉱夫として働きました。パウロも同じように、しんどい職人として働く道を選んだのではないでしょうか。大変厳しい茨の道です。しかしそれがパウロにとって、イエスに従う道だったのだと思います。

 神さまは、そんなパウロに大きなプレゼントを与えられました。それはアキラとプリスキラです。なんと同業者でした。しんどい仕事も同労の友、ましてやそれが同信の友であるならば、少し救われます。元気になれます。

 アテネで憔悴し、ほうほうの体でコリントに来た(一コリ2:3)パウロと、ローマを追われ、コリントへと逃げ延びて来たアキラとプリスキラを、神は合わせられたのです。弱っていた3人は元気を取り戻し、パウロは安息日ごとに会堂で語れるようになったのです。

 パウロにとっては、職人であるということが、大工として長年働かれたイエスに従う道だったのかも知れません。元迫害者という重い十字架を負うことと、社会の底辺の職人として生きることが、イコールだったのかも知れません。

 フィレモンへの手紙に表れている、老齢のパウロの慈悲深い印象は、奴隷の多い職業に身を置いて来たパウロだからこそのもの、なのかも知れません。

 イエス・キリストを宣べ伝えるとき大切なのは、イエス、パウロがそうであったように、下から、社会やそこで生きている人々を見る目かも知れません。職人パウロはそのことを教えてくれています。

   2023年7月16日 聖霊降臨節第8主日礼拝 笹井健匡牧師


 今日は教団部落解放祈りの日です。「部落解放…の日」ではなく「…祈りの日」という表現には、3月に召天された東岡山治牧師の強い思いがあります。キリスト教界で、はじめて部落民宣言をされた東岡牧師は、祈りの人でもありました。

 先週の日曜日、母教会の世光教会創立記念礼拝に招かれましたが、創立者の 榎本保郎牧師は東岡山治牧師と同級生でした。同じく3月に召天された小野一郎牧師(教団副議長、教団部落解放センター初代運営委員長)、さらに乃美尚敏牧師(福岡警固教会牧師:平島禎子牧師の恩師)も同級生でした。…中略…。

 世光教会は、「祈りの教会」と言われますが、以上のように周りの人々とも、祈りでつながっている教会でした。そういうことから、教団部落解放センター運営委員長を、大変長く努められた東岡山治牧師の思いから、「部落解放…の日」ではなく「…祈りの日」と制定されました。

 そうした人々の末席に連なっているような私ですが、30年前の結婚のとき、本当に大変でした。部落差別問題にかかわっている多くの人たち、そして何より京北教会(平島禎子牧師が在籍)、今治教会(笹井が在籍)、警固教会(平島禎子牧師の出身教会)、世光教会(笹井の出身教会)で熱心な祈りが捧げられました。

 世光教会のひとりの姉妹は、早天祈祷会で毎日祈って下さいました。そうした祈りの力で、道が開かれました。

 今日の聖書は、ガラテヤの信徒への手紙の最後の教えのところです。手紙のテーマは、信仰を持ったにも関わらず、律法に回帰する人たち、特に割礼を受けようとする人たちに、まことの福音を伝えることでした。そのことを5章まで切々と訴えてきたパウロは、今日のところで、信徒と信徒の関係に言及します。それは究極的には、「善を行う」(10節)ということです。より具体的な重要なこととして、「互いに重荷を担いなさい。」(2節)と勧めます。しかし、まずは「自分の重荷を担うべきです。」と教えます。

 一人ひとりが、自らの十字架を負って歩むことが大切です。しかしそれは、決して孤立、ましてや孤独でいいということではなく、互いに担い合うことが、信仰者の交わりにおいて最も重要であると思います。

 だれかの十字架は、主イエスが共に負われます。信仰の友は、それを見て見ぬふりをするのではなく、共に担うのです。

イエスと共に、友の重荷を担い合って行く歩みを、祈りを熱くしながら進めていく者でありたいと思います。

   2023年7月9日 部落解放祈りの日礼拝 笹井健匡牧師


 エルサレムにいた使徒たちと兄弟たちは、ペトロによって、異邦人が神の言葉を受け入れたこと、洗礼を受けたことを耳にしました。割礼を受けている者たちはペトロを非難しました。割礼とは神さまとイスラエルの民との契約のしるしでした。(創世記17章9~14節)初代キリスト教会において、割礼の有無は大きな問題でした。異邦人は割礼を受けていないのですから、そのような人たちが神の救いに与ることなど、ユダヤ人キリスト者たちは、思いもしなかったのです。ペトロは非難を受けましたが、そのようになった事の次第を順序正しく説明していきました。ペトロはヤッファに滞在し、祈っている時に幻を見ました。獣や鳥などが入った布が天から地上に下りてきて、それらを「屠って食べるように」という声を聞いたのです。ペトロは拒否しました。ユダヤ教では食物規定があり(レビ記11章)、食べてよい物、いけない物が決められていたのです。しかし、「神が清めたものを、清くないと、あなたは言ってはならない。」と天から声が返ってくるということが三回あったのです。律法で定められた、汚れていない物、汚れた物に縛られているユダヤ人キリスト者の在り方を変える出来事が起きたのです。ペトロはそのような幻を見た後、カイサリアから三人の人がやって来たことを知ります。この三人はコルネリウスという百人隊長から遣わされた人たちでした。コルネリウスは信仰熱心な人でした。彼もまた、天使のお告げを聞いてペトロのことを知り、ペトロを招くようにと言われたのです。ペトロはその三人の招きに応じ、コルネリウスの家へと入りました。そして、そこで話をしました。そうすると、その家にいた一同の上に聖霊が降ったのです。ペトロはそれを見て、「聖霊を受けたこの人たちが水で洗礼を受けるのを、いったい誰が妨げることができますか。」(47節)と言い、「主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができましょうか。」(17節)と言いました。ペトロの話を聞いて、人々は静まりました。人々は、ペトロの言葉に心を打たれて、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美したのでした。(18節)

 イエス・キリストの福音はすべての人に開かれています。ガラテヤの信徒への手紙3章28節には、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」と記されています。救いに区別はないのです。救いはすべての人に開かれているのです。大切なのは、イエスさまを自分の救い主であると信じ、神さまを信じ、聖霊の働きを信じることです。そして、イエスさまが教えられたように、神を愛し、自分のように隣人を愛することです。また、先に信仰に入った者は、自分の物差しで人を図らず、すべての人に教会が開かれていることを覚え、あらゆる人たちを受け入れる教会でありたいと思います。

 

2023年7月2日 聖霊降臨節第6主日 平島禎子牧師