• 記事検索

RSS

「善を行って苦しむ」 ペトロの手紙一3章13~17節

 キリスト教2000年の歴史を表現する言葉は、いろいろあります。その一つが殉教です。また日本では、隠れキリシタンの歴史があります。それらを大きく捉えると、「苦しみ」です。

 信仰の対象である主イエス・キリスト自身が苦しみを苦しみ抜いた存在です。

メシア、救世主であるイエスさまはその苦しみによって「実り」をもたらされました(イザヤ53:11)。そしてその実りがキリスト教です。

今日の聖書は、黒海と地中海に挟まれた、今で言うトルコ半島の諸教会に宛てられた手紙です。著者、年代ともはっきりしませんが、明らかなのは、背景に

迫害があることです。少し前の、9節の「悪」「侮辱」、そして今日の聖書の「義のための苦しみ」(14節)、「弁明」(15、16節)、「ののしる者」「悪口」(16節)等は、迫害がかなり厳しく、日常的に行われていたことを想起させます。

 本来は、13節にあるように、善行をしている人が苦しむことはおかしいことであり、あってはならないことです。しかし現実の世の中というのは、そうした不条理が横行しています。

 14節にあるように、現実の悪を指摘し、それを改善しようとする方向性を持つ、言わば預言者的義人は、いつの世にあっても、迫害されるのです(マタイ5:  10~12)。

 キリスト教の親宗教とも言うべきユダヤ教は、大きく分けると、二つの信仰の潮流があります。一つはレビ人、祭司等に代表される、祭司的伝統です。もう一つは、預言者的伝統です。イエスさまは、後者に属し、祭司たちから迫害されました。キリスト教もその流れにありますので、大きく言うと預言者的宗教と言えると私は思っています。

 しかし、弱い私たちは、なかなか預言者のようには生きられません。14節は、裏返すと、弱い私たちは、人々を恐れ、心を乱す存在であることを前提にしています。だからこそ、そんな時こそ、心の中でしっかりとイエス・キリストを主と告白しましょう。そしてそこから聖霊の力をいただき、静かに、愛に満ちた言葉をもって、相手の魂に語りかける者でありたいと思います。それが広い意味での伝道につながるのだと思います。

 キリストに結ばれた善い生活は、無敵です。イエスさまに救われた私たちは、どうせ苦しむなら、悪ではなく、善を行って苦しむ人生を送りたいと思います。

 

  2023年7月30日 聖霊降臨節第10主日礼拝 笹井健匡牧師


コメント
name.. :記憶
e-mail..
url..

画像認証
画像認証(表示されている文字列を入力してください):