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 先週は思いもよらぬことが起きました。水曜日の祈祷会後、唇の左側が麻痺していることに気づき、翌日には左目がおかしいことに気づきました。結果、顔面麻痺の一種のようで、食べにくく、話しにくい状態とまばたきができない左の目からが時折涙がこぼれます。今年こそはとはりきった結果がこれなのか、と意気消沈しましたが、自分の思いや力であれこれしようとし過ぎたのが悪かったのかな、と思わされました。
 11節の「力を捨てよ」というのは、人間が自分の力で勝手に動き回るのをやめよ、ということであろうと思います。戦争が起こる表向きの理由は、その国、その民族が自分の力によって、自分たちの正義を押し通そうとすることにあるのではないでしょうか。戦争が起きると、何の罪もない子どもたち、女性たち、高齢者たち、男性たちが犠牲になります。また、当初は同じ志をもって、自分の国を変えていこうと思っていた人たちも、それぞれのやり方に違いが生じ、自らを正しいと思うことによって、分裂、崩壊が起こります。また、私たちの日常の中でも、「自分の力でやらねば」という思いをもって、自分の力により頼むことによって、あれもこれもしなければならないという考えを持ち行動すると、必ず自滅します。しかし、その潰れた状態の中で、初めて、真の神の助け、神の力を見出すということで、真なる神の力を知り、神の力のみにより頼んで生きていくとき、私たちが思いもしなかった出来事が起きるのではないでしょうか。自分の力を捨て、神の力のみにより頼んで生きていく、それが信仰者の在り方であろうと思います。そして、「力を捨てる」ということは「平和な世界」を神と共に造り出すことでもあります。私たちが自分の力を捨て、神のみ力にのみより頼んでいく時、個々の人間の心の中に、自分と自分の周りの人達の中に、そして私たちの社会の中に、世界の中に真の平和が実現していくのであろうと思います。
 自分の力により頼まず、ただ神の力にのみより頼まれた方が、約2000年前にこの地上に現れ、愛の教えを私たちに示されました。その方は十字架の死をもって、真の愛とはこういうものだ、ということを示されたイエスさまです。イエスさまの死は敵をも愛する愛を私たちに示され、そして、私たち一人一人にイエスさまのように生きるようにと招いてくださいます。主イエスの許しと導きによって、私たち一人一人が、自分の力を捨て、ただ神の力により頼み、主イエスに従っていく、そのような歩みができるように、祈る者でありたいと思います。

2018年1月28日 降誕節第5主日礼拝 平島禎子牧師

 早いもので、新しい年を迎えて3週間になりました。一年は52週なので、すでに5%以上を終えたことになります。このまま行ってしまうと気が付いたら今年も終わりを迎えようとしていたりするかもしれません。しかしすべてのことには「時」があります。神の時を忍耐強く持ちながら、それぞれの信仰の歩みをすすめて行きたいと思います。
 今日の聖書はイエスさまが伝道を開始されたところです。マルコによる福音書では、シンプルに書かれていますが、マタイは旧約の預言等も採用しながら、少し詳しく記しています。
 背景には、おそらく当時絶大な人気のあった洗礼者ヨハネが、逮捕され、投獄されるという大変ショッキングな事件があったように思われます。民衆はヨハネを預言者だと思っていました。ヨハネは希望の星だったのです。
 そうした民衆の絶望のとき、イエスさまが伝道を開始されます。ガリラヤにおいて宣教活動を始められたのは、もちろん、12節にあるように「退かれた」という面もあるように思います。しかしそれ以上に当時のガリラヤが置かれていた状況、人々からの侮蔑のまなざしがおおきかったのではないかと思います。
 イエスさまは、あえてガリラヤにおいて神の国の福音を宣べ伝えられたのです。当時の時代の中で、最も救いを必要とする人々が多くいたであろうガリラヤこそが、最初の地として選ばれました。「異邦人」「暗闇」「死の陰の谷」等の言葉が用いられている、そのような地で主イエスは伝道を開始されました。
 マタイはそんなイエスのことを「光」にたとえています。光にもいろいろありますが、このイエスさまの光は他のどんな光にもまして、すべてのところに、すべての人々に届く光だったのだと思います。人々の常識では「あんなやつら」と思われていた、まさにそうした人々に届く、神さまからの光として、イエスさまは地上に来られました。
 私たちもイエスさまの光に自らの心を照射していただき、暗闇を明るく照らしていただいて、この1年も歩んで行きたいと思います。

2018年1月21日 降誕節第4主日 笹井健匡牧師

 今年は1月2日に鷲羽山の山頂まで初めて行きました。体力がかなり落ちていて、展望台から山頂までは普通なら10分で行くらしいのですが、私の場合は、休み休みに行って、ようやく山頂にたどりつきました。本当は途中でやめたくなったのですが、なんとかがんばれてよかったと思いました。今年は自分にとって嫌なこと、億劫なことをしようと思っています。しかし、自分のためだけにするというのではなく、神さまに喜ばれる人間になるために、心を新たにして、嫌なこと、今まで避けてきたことを新しい思いをもって一年間過ごしていきたいと思います。
 2節には、「あなた方はこの世に倣ってはいけません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」と記されています。人間の内側から起きてくる様々な欲望、また、高慢、虚栄心、自分の心が喜ぶことを神とする偶像礼拝、そういったことに支配されているのが「この世」であります。そのような「この世」に倣った生き方をしてはいけない、とパウロは言うのです。イエスさまを主と信じ、告白したあなたたちはかつてはこの世の者であったが、古い自分に死に新しい人間としてイエスと共に歩みなさい、と言われているのだと思います。クリスチャンと言っても、過ちを犯し、人を傷つけることもあります。しかし、クリスチャンは自分が不完全な罪のある人間であることを知り、その罪を神の前に日々悔い改め、神さまに喜ばれるように生きていこうとする人間なのです。そして、日々「心を新たにして」、神さまが私を変えて下さることを信じ、自分も変わろうとする人間なのです。
 このパウロの手紙は個人にではなくローマの教会宛に書かれたものです。5節には「キリストに結ばれて一つの体」と記されています。これは教会のあるべき姿を意味しており、一人一人の人間がそれぞれに与えられた異なった賜物を生かし合い、一つの体、一つの教会を作っていきなさい、ということであろうと思います。私たちは、新しい年2018年を迎え、心を新たにし、児島教会というキリストの体である共同体を、等身大の自分に与えられている賜物を生かし合って、生き生きとした教会を作っていかなければならないと思わされます。神さまが私たちと共にいて下さり、イエスさまの導きによって、古い私から新しい私へと必ず変えて下さると信じることが大切ではないでしょうか。
 新しい年、2018年を、心を新たにして、それぞれの業に励み、それぞれが新たなる教会の交わりを形成していく者でありたいと思います。         

2018年1月14日 降誕節第3主日 平島禎子牧師

 新年おめでとうございます。
 昨日が公現日であり、クリスマスイブからの2週間のクリスマス休暇が終わりました。と言っても欧米のキリスト教国の場合ですが。
 今日から新しい年が本格的に始動します。2017年は何とか無事に終わることができ、何よりでした。しかし現代私たちの多くは、「年度」で生きています。あと3か月なんとか無事に終えることができるように祈りたいと思います。
 今年のことをいろいろと思いめぐらしていると、なぜか今日の聖書の4節の聖句が思い浮かびました。口語約聖書では「あなたは尊く、・・・」となっています。イエスさまが最もよく引用された聖書(旧約聖書)の一つは、イザヤ書です。イザヤの預言の精神が最も端的に言い表されている言葉だと思います。神の前に人間は尊い存在である、と。現代風に言うと「人間の尊厳」です。この精神は日本国憲法の土台にもなっていますが、イエスさまよりさらに500年以上も前に、イザヤは神が保証するものとして人間の尊さを語っているのです。
 イザヤ書というと、私たちクリスチャンにとっては、救い主であるイエスさまの預言を思い浮かべます。それは言い変えれば、神はそのひとり子を賜ったほどに、私たち人間を大切な存在として愛してくださった(ヨハネ3:16)ということです。それほど、本来「人間は尊い」のです。
 3節には神ご自身が「救い主」だと言っておられるのです。さらに最後の7節では「神が創造し、完成した。」とまで言われるのです。それゆえにわたしたちは尊いのだと。
 世の大小の陰には「コンプレックス」があると私は思っています。日本人は特に自尊心が低いと言われています。キリスト教は愛の宗教であると言いながら、その実、「罪」ばかりを語っている面があるように思います。もちろん、「罪の自覚」は大切です。しかし自身が罪深い存在であることをしっかりと自覚しながらも、そこにとどまらず、神はそんなに私たちを尊い存在だと思っていて下さることを心に刻みたいと思います。そして世の人々に、特に自らの「欠け」に苦しむ人々に「あなたは尊い」という私たちの神居さまの言葉を伝えていきたいと思います。
 暗雲立ち込める時代の中で、私たちをこよなく愛してくださる神の愛を、人々に宣べ伝えながら、その神への信仰によって、暗雲を吹き飛ばしていく歩みを、この新しい年、2018年も共にすすめて行きたいと思います。

2018年1月7日 新年礼拝(降誕節第2主日) 笹井健匡牧師