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 1月25日(金)に開催された第2回ナインの会で、倉敷水島教会の小岩牧師から、文語訳聖書が検索できることを教えられました。その後、私の頭に、ずいぶん前に、ある信徒から「千方尽くれど望みを失わず」という聖句が、今の聖書のどこに当たるのか教えてほしいと頼まれ、今日の聖書の個所だとお答えしていたのですが、今回検索して新たなことが分かりました。
 「千方」と私が勝手に思っていたのは、「万策尽きる」、「万事休す」等の影響があったからで、本来は「為ん方」であったということです。行為の「為」です。つまりいろんなことをやってみたけれど、あらゆることを試みたけれど、できることはすべてやったけど、ダメだったということだったのです。人間の努力を、すべての力の限りを尽くしたけれどもダメで、もう何も方策がない、できることがない、それでも望みを失わない、という聖句だったのです。
 その理由は、私たちは一人ひとりみんな、神さまから「宝」をいただいているからなのです。「土の器」というのはほんとにすぐれた表現だと思います。もちろん創世記に神さまが人間を創造されたとき、土からつくられたことが記されていますが、ここではそのことよりもパウロの謙遜な信仰が読み取れるように思います。偉大な伝道を為したパウロでしたが、それはすべて、神の力によって為されたものだったことを「土の器」という言葉は雄弁に語っているように思います。栄光を神に帰す、信仰者の模範があるように思います。
 また、私たちは欠けの多い、土の器だからこそ、その欠けているところから、神さまの宝から発せられる光が、外へと輝き出るのかも知れません。少し前の、5節でパウロは自分のことを「仕える僕」と言っています。神と人とに仕える存在こそが「土の器」である信仰者の姿なのだとあらためて思わされます。
 自分自身が「土の器」であることを自覚し、神の前にへりくだり、人に仕えて生きて行く者でありたいと思います。たとえ人からは理解されなくても、変に思われようとも、ゆがんだ自己宣伝がはびこるこの時代のなかにあって、私たち信仰者は、あくまでも「人の子」としてその生涯を全うされた救い主イエスさまに従って、共に歩んで行く者でありたいと思います。

2019年2月17日 降誕節第8主日礼拝 笹井健匡牧師   

 「虎の威を借る狐」という言葉があります。私たち人間は、いつの時代も様々なかたちの「権威」を生み出し、それに寄りかかり、また利用して来ました。
多くの場合、寄りかかるのは民衆、利用するのは権力者です。その半面、「権威」はその社会を、またその社会秩序を保って来た面もありました。
 今日の聖書は、「皇帝への税金」という見出しがついていますが、背景にはこの「権威」をめぐるイエスさまとユダヤ当局とのたたかいがあるように、私には思わせられます。
 直前の12節には「当てつけ」という、どちらかというとマイナスの意味合いの強い、きつい言葉が記されています。そのたとえ「ぶどう園と農夫」のたとえが記されているさらに一つ前には、「権威についての問答」があります。そこでは祭司長、律法学者、長老たち、つまり時のユダヤ教の権威が、自分たちの権威でイエスを陥れようとしたことが記されています。しかし、それに失敗した彼らは、今度は今日の聖書の個所で、さらに強大な、そして本来は敵対するはずの、ローマ皇帝の権威を利用してイエスを陥れようとしたのです。
 ファリサイ派は、ユダヤ教の信仰、律法を守るのに熱心すぎるほどでしたから、当然、植民地支配をしているローマ皇帝に税金を納めることに反対していました。一方、ヘロデ派は、いわばローマの傀儡政権であり、親ローマの立場をとっていましたので、ローマ皇帝に税金を納めるべきという立場でした。
 つまりイエスがどちらの答えをしても、イエスを陥れることができるように両派を遣わしたのです。「納めてはいけない」と言えば、ヘロデ派がローマ皇帝への反逆だとしてイエスを訴えたでしょう。「納めるべき」と言った場合には、数人の、おそらくエリートの律法学者たちが、それはユダヤ教の律法に反するのではないか、とイエスに詰め寄ったと思われます。つまり、どちらを応えても、イエスを陥れることができたのです。しかしイエスさまは、見事にその陰謀を打ち砕かれました。
 「皇帝のもの」とは所詮この世の「はかない」富でしかありません。他の福音書では「神と富」の両方に仕えることはできないと明言されました。「神のもの」とは何でしょうか。言うまでもなく、私たち人間を含め、天地万物が、もともと「神のもの」です。
 その神さまが最も大切に思い、愛して下さっているのが私たちです。その愛にこたえ、神を愛し、人を愛して信仰の歩みをすすめて行きたいと思います。

2019年2月10日 降誕節第7主日礼拝 笹井健匡牧師

 あっと言う間に2月になってしまいました。40代の頃までは年賀状に「今年の目標」を記していました。数年前から「目標」がなくなり、「感覚」というか「予感」みたいなものに変わって来ました。年のせいかもしれませんが、だんだん「目標を持つ」ということが難しくなってきました。みなさんはどうでしょうか。
 今日の聖書のパウロの直接の目標は、「死者の中からの復活」(11節)です。強烈な終末信仰に生きていた当時のクリスチャンにとっては、終末が来たとき、神さまがイエスさまを復活させられたように、自分たちも「復活」にあずかることができるように、信仰の道を歩んでいたのです。
 広い意味では、そのことは現代でも同じです。礼拝においても信仰告白として信徒信条を告白しています。その中身は2千年前から続くものです。しかし、現実にこの世を生きる私たちにとっては、もっと身近というか具体的というか、今的な目標が必要なのかも知れません。
 教会では、年間標語、年間聖句を掲げて、その一年を共に歩もうとします。加えて一人ひとりも何らかの、共鳴するような目標を持つことができたら、どんなに素晴らしいことでしょう。
 1月は行ってしまいましたが、2月が逃げないように、もう一度自らの信仰の在り方を見つめ直したいと思います。そのためには、今日の聖書13節にある「後ろのものを忘れ」ることも大切なことなのかも知れません。いつまでも過去に囚われていると前にすすんでいくことができません。
 わたしは、たまにサイドブレーキをかけたまま、車をスタートさせてしまうことがあります。なんか重たいなあ、と途中で気づいてあわててサイドブレーキをはずすのですが、過去というのも、いつまでも引きずっていると、自らの歩みにブレーキをかけてしまうのかも知れません。
 もちろん、大切なことはしっかりと心に刻んで、しかし忘れていいこと、忘れた方がいいことは、さっさと後ろに追いやって、前へ、前へと歩んで行きたいと思います。そのためにも、何か新しい目標を持つことが大事なのかも知れません。
 そしてその目標の先にある、真の目標、神さまが定められているゴールを目指して、共に信仰の歩みを前に進めていきたいと思います。
 
2019年2月3日 降誕節第6主日礼拝 笹井健匡牧師  

 あっと言う間に2月になってしまいました。40代の頃までは年賀状に「今年の目標」を記していました。数年前から「目標」がなくなり、「感覚」というか「予感」みたいなものに変わって来ました。年のせいかもしれませんが、だんだん「目標を持つ」ということが難しくなってきました。みなさんはどうでしょうか。
 今日の聖書のパウロの直接の目標は、「死者の中からの復活」(11節)です。強烈な終末信仰に生きていた当時のクリスチャンにとっては、終末が来たとき、神さまがイエスさまを復活させられたように、自分たちも「復活」にあずかることができるように、信仰の道を歩んでいたのです。
 広い意味では、そのことは現代でも同じです。礼拝においても信仰告白として信徒信条を告白しています。その中身は2千年前から続くものです。しかし、現実にこの世を生きる私たちにとっては、もっと身近というか具体的というか、今的な目標が必要なのかも知れません。
 教会では、年間標語、年間聖句を掲げて、その一年を共に歩もうとします。加えて一人ひとりも何らかの、共鳴するような目標を持つことができたら、どんなに素晴らしいことでしょう。
 1月は行ってしまいましたが、2月が逃げないように、もう一度自らの信仰の在り方を見つめ直したいと思います。そのためには、今日の聖書13節にある「後ろのものを忘れ」ることも大切なことなのかも知れません。いつまでも過去に囚われていると前にすすんでいくことができません。
 わたしは、たまにサイドブレーキをかけたまま、車をスタートさせてしまうことがあります。なんか重たいなあ、と途中で気づいてあわててサイドブレーキをはずすのですが、過去というのも、いつまでも引きずっていると、自らの歩みにブレーキをかけてしまうのかも知れません。
 もちろん、大切なことはしっかりと心に刻んで、しかし忘れていいこと、忘れた方がいいことは、さっさと後ろに追いやって、前へ、前へと歩んで行きたいと思います。そのためにも、何か新しい目標を持つことが大事なのかも知れません。
 そしてその目標の先にある、真の目標、神さまが定められているゴールを目指して、共に信仰の歩みを前に進めていきたいと思います。
 
2019年2月3日 降誕節第6主日礼拝 笹井健匡牧師