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 敬愛する故三宅八重子姉が召天されて、半年が過ぎました。佐藤眼科にかけられている八重子姉の筆による「愛」の額は、ほんとに文字通り神の「愛」を感じさせてくれます。また、毎週の礼拝と、祈祷会の聖書の当該個所には、必ずこの会堂の献堂式の栞を挟んでいますので、そのたびに、八重子姉を思い出します。
 「神は愛」というのは、キリスト教の根幹をなす信仰です。私たちの救い主、主イエス・キリストによって、そのことが示されました。イエスさまはその宣教を通じてそのことを繰り返し教えられましたが、近くにいた弟子たちでさえ、後に、十字架と復活を経験し、聖霊を受けるまで、そのこと、つまり「神は愛」であることが分かっていなかったのです。そういう意味では、イエスさまの十字架は、「神は愛」であることを、私たち人間に理解させる唯一の方法だったのかも知れません。そうでなければ、イエスさまは偉大な預言者の一人であり、神は今でも遠い、どこか「恐ろしい」存在であったかも知れません。
 特に、ヨハネによる福音書とヨハネの三つの手紙は「愛」を強調します。神が愛であることを弁証し、そしてその神の愛に生かされている私たち人間も、互いに愛し合うことが勧められています。
 今日、今回私が心にかかったのは、18節の「愛には恐れがない。」という言葉です。私たちこの日本列島に住む者は、常に災害と隣り合わせで生きています。そういう意味では、常に「恐れ」や「不安」がある訳です。だからこそ、そうした感情につけ込み、あおる「カルト」宗教がはやるのかも知れません。
 しかし今日の聖書は、「神は愛です。」の後にあるように、愛なる神は、私たちと「ひとつ」「一体」の存在だと言います。神が一心同体のようなかたちで共にいて下さるなら、私たちは何も恐れるものはありません。
 日々の生活の中で、孤独を感じるとき、悲しみに沈むとき、そうしたときこそ私たちは「神は愛」であり、いつも共にいて下さる方であることを思い出しましょう。そして神に祈りましょう。そうすれば、たとえ現実がどんなに大変な状況であろうとも、心の平安を与えられて安らぐことができると思います。
 そして、私たちには信仰の友が与えられています。一人ひとりは弱くとも、様々な欠けを持っていようとも、神は、神の愛を知り、愛し合う姉妹兄弟として信仰の友を与えてくださいました。そのことに感謝し、共に神の愛の中、信仰の歩みをすすめて行きたいと思います。

2019年1月27日 降誕節第5主日礼拝 笹井健匡牧師

 1月17日は、阪神淡路大震災から24年の日でした。あのとき、何度か被災地に入る中で、人間が築き上げた大きな建物が、こんなにもあっけなく崩壊してしまうという現実に心を痛めました。人間の「小ささ」を思い知らされた経験でした。
 今日の聖書は、いわゆる「富める青年」の話を受けて、イエスさまが語られた言葉が中心になっています。神の前に正しく生きていた一人の人が、多くの財産をもっていたために、神の国に入れなかった、というのです。弟子たちは大変驚きました。当時の一般的な考えでは「富」は神の祝福の表れだと考えられていたからです。この人も、おそらくなすべき「施し」はしていたのだと思います。しかしイエスは、その財産をすべて売り払ってしまえ、と言われたのです。
 それでは弟子たちはどうでしょうか。イエスに招かれ、すべてを捨てて、イエスに従ったことが記されています。自分にはできない、立派なすごいことだなあと思ってしまいます。しかしイエスが言われているのは、人間の側の、「できる」「できない」ではないのだと思います。そもそも人間にはできないのです。弟子たちがすべてを捨ててイエスに従うことができたのも、そこに神の力が働いたからこそできたことなのです。
 私たちも信仰生活を歩む中で、時として、神さまそれだけはできません、というような経験をするかも知れません。しかし、その時忘れてはいけないのは、自分にはできなくても、神さまにはできる、神さまは何でもできる、ということです。この信仰が私たちの核にあるからこそ、私たちは今もこうしてクリスチャンとして歩んでいるのです。聖霊によらなければだれもイエスをキリストと告白することができない、というのも同じです。表面的には、自分で、選び取り、決心し、信仰者になったように見えますが、その実、神さまの方からみ手を伸ばしてくださり、信仰を与えてくださったのだということを覚えておかなくてはいけません。たとえ、それがどんなに小さく、地味な歩みであったとしても、神さまが備えてくださった道を私たちは一人ひとり懸命に歩むのです。
 大自然の災害や、人災や、病や、その他多くの艱難に遭うこともありますが、しかし私たち人間の力ではどうすることもできない、そんなときこそ、その場を切り開いて下さる、救いの業を起こして下さる神の力に頼り、その神の力を信じて、その時を待ちつつ、信仰の歩みをすすめて行きたいと思います。

2019年1月20日 降誕節第4主日 笹井健匡牧師

 今年は降誕節が非常に長く、第10主日まであります。クリスマスを迎えての喜びの時が長く続くことになります。この時には特にイエスさまの生涯を意識したりしますが、例年は素通りするイエスさまの青年時代について共に思いを巡らしてみたいと思います。
 インターネットで調べると非常にたくさん出てきますが、現代でもユダヤ教では成人男性の仲間入りをする儀式を13歳になったときにします。イエスさまの時代も、おそらくそうであっただろうと思われます。つまり、今日の聖書の42節の「12歳」というのは少年最後の年にあたるわけです。13歳になったからと言って、何もしないで、いきなり大人の役割が果たせるわけではありません。律法の学習を中心とした相当の準備が必要になります。エルサレムの富裕層等をのぞけば、一般の人たち、特にガリラヤのナザレの貧しい大工の子であったイエスさまの場合は最も遅いと思われる12歳の誕生日から律法の学習等の準備を始めたのだと思われます。聖書の記述を信頼するならクリスマスからイースターまでの約3~4か月がその期間でした。だからこそ、神殿にいた学者たちも、両親も非常に驚いたのです。こんな短い期間で…。
 さて、本題の「青年時代」ですが、今日の聖書の次にイエスさまが登場する3章には23節におよそ30歳で宣教をはじめられたとあります。18年の空白があるわけです。ですから唯一の手掛かりは、今日の聖書の51節、52節です。ナザレに帰ったイエスさまは両親に仕えて暮らされたこと、そして知恵が増し、神と人に愛された、ということのみです。
 マルコ6章の記述を信頼するなら6人以上いる弟妹の世話をしながら、大工として、一家の生計を支えて、生きて行かれたのではないかと思います。讃美歌280番にあるように、「貧しきうれい、生くる悩み」をつぶさになめながら、の人生だったのではないかと推察されます。あくまでも「神の子」であるイエスさまが家族に「仕えて」暮らされたのです。後の宣教活動の中で、繰り返し弟子たちに「仕える」者になるように教えられたイエスさまの原点がここにあるように思わされます。18年もの長い年月を、信仰と忍耐と、そして何よりも愛をもって生き抜かれたのがイエスさまの青年時代だったのだと思います。そしてそれは後の宣教活動の備えとなったのだと思います。
 長い降誕節の時、「成人イエス」にも思いをはせながら、私たちもそれぞれの苦難に信仰をもって耐えながら互いに愛し合って歩んで行きたいと思います。

2019年1月13日 降誕節第3主日礼拝 笹井健匡牧師   

「子どものように」          マルコによる福音書10章13~16節
 
 今日の聖書の個所には、イエスさまが子どもたちを祝福されるということが記されています。イエスさまのところに子どもたちを連れて来た人たちを、イエスさまの弟子が叱ったということから始まっています。当時の社会において、子どもは存在価値が低いものでありました。弟子たちは、イエスさまがいよいよエルサレムへ行かれ、王になる方だと思い込んでいました。そのような偉いイエスさまのところに子どもを連れてくるというのは何事か、という思いをもって厳しく叱ったのであろうと思います。しかし、イエスさまはそのような弟子たちの態度を見て、憤られ、大変な怒りを覚えられました。そして、「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国は、このような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」とイエスさまは言われ、子どもたちを抱き上げて、手を置いて祝福されました。
 当時の社会では子どもは律法を知らない者、神の前に功績を積めない者とされていました。大人の中には救われるにはどうすればいいだろうかと悩み、律法を守らなければならないと自分を縛って生きている人もいたことと思います。しかし子どもは宗教的な悩みも束縛もなく、素直に神さまを信じるということをなしていたのだろうと思います。マタイによる福音書18章4節では、「自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」というイエスさまの言葉が記されています。「子どものように」というのは「素直にへりくだって」ということであるのかもしれません。そのような子どもたちから大人は学ぶべきものがあるのかもしれません。
 イエスさまが「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」と言われた言葉を心に持ち、新しい年の歩みを始めて行く者でありたいと思います。


2019年1月6日 降誕節第2主日礼拝 平島禎子牧師

 2019年、新年おめでとうございます!新しい年を迎え、こうして共に教会に集い、一緒に新しい歩みを始められることを神さまに心から感謝いたします。
 2018年は悲しい出来事の多い年でしたが、その中にあっても神さまの恵みは、ここに集う私たち一人ひとりの上に注がれていたと思います。新しい年がどのような年になるのかは分かりませんが、たとえどんなことがあっても、神さまを信じ、互に愛し合いながら、支え合いながら進んで行きたいと思います。
 この詩編96篇は、「歌え」「たたえよ」「告げよ」「伝えよ」という言葉で始まります。イスラエルの民の、神さまに対する思いがひしひしと伝わって来る気がします。神さまは驚くようなことを、人知をはるかに越えたことを私たち人間の上になされる方です。旧約の民は、その歴史の中で数多くの危機を経験して来ましたが、そのたびに、最終的には神に立ち返ることによって救いの道が開かれ、その歩みを刻み続けて来たのです。そこには、自分たちが信じている神さまへの絶対的な信頼があります。
 そしてその神は、民族の枠を超えて「公平」で「正しく」「真実」な方なのです。もちろん、他民族への感覚は、現代からすると問題もありますが、しかし自分たちが信じている方は万物の創造主であり、そして人間を、基本的には平等に捉えようとする「芽」が、ここにはあるように私には思えます。だからこそ、主イエス・キリストが誕生し、そして「福音」は世界へと広がって行ったのだと思います。
 私たちは今、新年を祝い喜ぶために集まっています。「天」も「地」も、そして「海」も「野」も「森の木々」も、喜びに溢れ、踊るように歌えというのです。それは「御救いの良い知らせ」があるからです。今まで聞いたことがないような、想像したこともないような、新しい知らせが、そこにあるのだと思います。
 今、クリスマス週間を過ごしていますが、私たちクリスチャンにとっては、それは何よりも主イエスのご降誕であり、救い主が私たちのところに来てくださったという喜びです。長年信仰者として歩んでいると忘れてしまいがちですが、まだイエスさまを知らない人にとっては、かつての私自身もそうでしたが、全くの、聞いたことのない、新しい知らせなのです。
 まず、伝えてみましょう。知らせてみましょう。難しいなら、祈りましょう。新しい年の歩みが祝されますように、心から祈りましょう。

2019年1月1日 新年礼拝 笹井健匡牧師