2年前に召天されたF教授(厳密には宣教師)には、説教(実習)と牧会を学びました。牧会学の授業で強調されていたのは、魂のケアでした。一般的なカウンセリングと共通する要素もありますが、心のその奥にある、魂の部分のケアをして行くことの大切さと難しさ、そして喜びについて教わりました。
今日の聖書でパウロは、律法ではなく福音に生きることを、たとえを用いて説明しています。1~3節は、少しどうかと思うたとえですが、律法を夫にたとえ、キリストを「他の男」にたとえて説明します。そして4~6節前半では、キリストによって、律法に対して死に、律法から解放されたことを力説するのです。
そして最終的に、古い生き方、つまり律法は文字に従う生き方であり、新しい生き方、つまり福音は霊に従う生き方だと言います。
赤ちゃんは、生まれた当初、泣いてばかりいます。やがて笑うようになり、声を発するようになり、その声が言葉となり、成長して文字を覚えていくようになるのです。文字というのはそういう意味で、かなり後からのものです。人類の歴史を考えてみても、文字はやはり相当、後からのものです。
はじめに神さまの思いがあり、その思いが言葉となってアブラハムに告げられました。それからかなりの後に、モーセを通して、石板に刻まれた文字としての十戒が与えられたのです。それが律法の始まりです。律法という文字の限界をたびたび預言者たちは指摘します。そしてエレミヤにおいてついに律法は文字から心に帰ります。(エレミヤ31:33)
イエスさまは、それをさらに霊、つまり魂まで返されたのです。それによって、神と人との関係は、文字という理論的な(理屈)冷たい関係から、魂という根源的な温かい関係に変えられたのだと思います。本来神と人間は、文字の契約以前に、霊と霊、魂と魂でつながっているものだからです。
先の戦争に思いをいたす時、多くの、おびただしい数の無念の死を遂げた魂たちのことをも思い起こします。その声に耳を傾ける者でありたいと思います。そして同時に、現代もなお行われている戦争、また災害や疫病のため、苦しみうめく魂の声を聴き、その救いを祈り、イエスさまが約束された平和な世界が実現するように、信仰の歩みを進めて行く者でありたいと思います。
2024年8月18日 聖霊降臨節第14主日礼拝 笹井健匡牧師
ダイバーシティ&インクルージョンという言葉があります。これは、単に異なる背景を持つ人々を受け入れるだけでなく、その多様性を活かし、それぞれの個人が最大限に貢献できる状態を作り出すことを目指すものだそうです。これは、教会の在り方にも似ているのではないかと思わされます。
8月9日の長崎原爆の日の長崎市長の平和宣言の中で、「世界中の皆さん、私たちは、地球という大きな一つのまちに住む「地球市民」です。(中略) 国境や宗教、人種、性別、世代などの違いを超えて知恵を出し合い、つながり合えば、私たちは思い描く未来を実現することができる。長崎は、そう強く信じています。」と言われていました。同じ地球に住む人たちが多様性があるからこそ、平和を創り出す知恵を出し合うことができ、平和は実現すると長崎は信じていると言われているように思わされました。多様性の豊かさにより平和が実現するようにと願います。
また、金子みすゞさんの童謡に「わたしと小鳥とすずと」というものがあります。わたしと小鳥とすずはそれぞれ違うけれども違っていて、「みんないい」のだと謡われています。「みんないい」というのが大切なのではないかと思います。
教会は、イエス・キリストという一つの体に多様な一人一人が連なっている共同体です。個性ある私たちがキリストの体の部分部分であると今日の聖書は教えています。「神は、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。」(18節)と記されています。それぞれの人にふさわしい賜物を神さまは与えてくださっています。そのことを受け入れ、その賜物を生かす部分として、キリストの体を構成していくべきであろうと思います。しかし、体の部位でも見劣りがするところがあると23節に記されています。「体の中でほかよりも弱く見える部分がかえって必要なのです。」(22節)神さまは、見劣りする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられたのだと24節の後半に記されています。神さまは迷い出た一匹の羊のように、放蕩息子のように、失われた者、弱き者、小さき者を探し求められる方です。それだからこそ、体の中でも見劣りがすると思われる部分を引き立たせられ、体の一部とされるのです。また、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい。」(31節)と記されています。マタイによる福音書25章14節以下にタラントンのたとえが記されていますが、預かった1タラントンをそのまま眠らせてはいけないのです。
私たちの教会が多様性を大切にする教会であり、また、多様性がある故に豊かに成長していくことができる教会となることができますように。一人一人の個性が尊ばれ、一人一人が連帯し、一人一人の苦しみが皆の苦しみとなり、一人一人の喜びが皆の喜びとなる、そのような教会となれるように、またそのような地球市民となれるように、祈る者でありたいと思います。
2024年8月11日 聖霊降臨節第13主日 平島禎子牧師
今年も8月を迎えました。昨年以上にさらに暑い日々に、身も心も折れそうになりますが、平和への思いだけは忘れずに、この厳しい日々を乗り切って行きたいと思います。
2日(金)のNHK朝ドラで、主人公の相手役の男性が戦争責任告白をしました。まさか、の驚きとともに、なるほど、という思いをしました。
私たちが信じるイエスさまは、愛のお方であり、あらゆる罪を許される方です。平和についていろいろと思い巡らす時、「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ26:52)と言われたこと、そして生涯を通して、すべてを許す愛の業を貫かれたことを思い起こします。
今日の聖書の見出しには、「悪の世」とあります。これは「戦いの世」とも言い変えることができるかも知れません。「力」を信じ、「力」に依り頼み、「力」を求めて生きる、そんな人間の世はいつまで続くのでしょうか。「力を捨てよ、」と聖書(詩編46編)は教えています。
イエスさまの大きな愛の視点は、ヨハネ福音書から、ヨハネの手紙に脈々と受け継がれています。神から生まれた者は、同じように神から生まれた他者を愛すると教え、それを神の掟と表現します。神の掟とは互いに愛し合うことです(3:23)。これはヨハネ福音書13章34節から来ています。
ヨハネの教会には、大きな内部抗争があったようです(2:18以下)。分裂の危機にあった教会に対して、手紙の著者は、もう一度原点であるイエスさまの教え、互いに愛し合いなさい、に立ち返るように促しているのです。そしてその歩みをして行くことが、この世に打ち勝つことになると言うのです。
戦後79年が経過しました。いつまでもこの、戦後が続くように祈りたいと思います。そしてイエスさまが、その尊い犠牲と、大きな愛で示してくださったように、許し合う社会が、戦いを選ばない非戦社会がこの地上に実現して行くことを、信仰を持って、熱く祈って行く者でありたいと思います。
2024年8月4日平和聖日(聖霊降臨節第12主日)礼拝 笹井健匡牧師