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「新しい心と新しい霊を造り出せ」 エゼキエル書18章30~32節
 
 30節に、「イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く」と記されています。神さまは、集団としてではなく、ひとりひとりの在り方を問われているのです。そして、神さまは、私たちひとりひとりに語りかけられます。悔い改めをなし、神への背きをすべて投げ捨て、「新しい心と新しい霊を造り出せ」と言われるのです。人が本当に自らの人生を顧み、自らの過ちを悔いて、神に立ち帰ろうとする時、そこに神さまの力が働いて、その神の力によって、人間の内面が変革されるのであろうと思います。また、神さまは誤った道を行く人を捨て置かれません。神さまは誰一人の死も喜ばれません。「お前たちは立ち帰って生きよ。」と言われるのです。
 私たちは完全な正しさの中で生きることはできないかもしれませんが、日々、悔い改め、日々新しい人として、希望と勇気をもって歩まねばならないと思わされます。
 マルティン・ルターは1517年10月31日に、カトリックの教会に対して、「95ヵ条の提題」を示しました。このような問題提起をすることは非常に勇気のいることでした。また、先駆者たちの存在もあり、宗教改革がなされ、プロテスタント教会が誕生したのです。ルターの行為は、「新しい心と新しい霊」を造り出すことによってなされたのではないかと思います。しかし、ルターはにも負の面はありました。ルターには権力者の後ろ盾があり、農民戦争ではそのリーダーである聖職者ミュンツアーを非難し、農民たちを排斥する側についたのです。ルターも不完全な人間であったということを覚えておかなければならないと思います。
 宗教改革によって誕生したプロテスタント教会の「プロテスタント」は「抵抗する」という意味です。私たちプロテスタント教会に属する者は、その「プロテスタント」の心を持つことが大事ではないかと思います。教会が腐敗していくならそれに抵抗する、また、社会悪に対しても抵抗するということが大切であるように思わされます。
 ルターには負の部分はありますが、やはりその功績は大きなものです。説教後の讃美歌(21-377)は、ルターが作詞作曲したものです。勇気をもらえる讃美歌だと思っています。心を奮い立たせ、神さまによって、「新しい心、新しい霊」を造り出し、この世の悪に対して、信仰に基づいて、プロテストしていく思いを強くする者でありたいと思います。

2017年10月29日 降誕前第9主日 平島禎子牧師

「剣を捨てる」 マタイによる福音書26章51~56節

 今年の最初の礼拝、1月1日(日)の礼拝で、今年は大きな変化の年になると私の予感めいたお話しをしましたが、今まさにそのことが現実味を帯びてきているように思います。秘密保護法に始まり、安保法制、共謀罪と、戦争ができる国づくりが露骨に進められて来ました。最後の仕上げに残っているのは緊急事態条項です。災害と戦争被害の恐怖を煽って、簡単に成立するでしょう。もはや選挙もなく、政府に反対する人は、投獄されていくことでしょう。
 平和な時代に、戦争に反対すること、非暴力を訴えることは、容易いことです。しかし本当に非暴力や、無抵抗が必要とされるのは、戦争の時代においてです。
 私たちが信じるイエスさまが生きられた時代も、決して平和な時代ではありませんでした。イスラエルの人々はローマの植民地支配に苦しめられていました。テウダやガリラヤのユダの独立運動があったことが使徒言行録5章36・37節に記されています。イエスさまをメシアと信じ、従った多くの人々も、神の力に満ちて、イスラエルを独立させてくれる新しい王として、イエスさまを歓迎したのです。
 今日の聖書はイエスが逮捕される場面ですが、剣を抜いたのはヨハネ福音書によれば、ペトロです。ペトロは、他の弟子たちもそうですが、すべてを捨てて、イエスさまに従ってきました。しかしここでは剣を持っていました。護身のためでしょうか。イエスさまを守るためでしょうか。イエスさまをとらえに来た人々も剣や棒を持って来ました。武力、力による変革を期待した多くの人々、そしてそれを恐れたユダヤ教当局、どちらもそういう意味では同じ土俵に乗っていました。しかしイエスさまは、「剣をさやに納めなさい。」と言われました。そして、天の軍勢を呼ばないと言われたのです。これを聞いて、弟子たちは逃げ出したのだと思います。いつものように、奇跡を起こして敵をやっつけてくれると思っていたのです。
 「剣を取る者は、剣で滅びる。」この時は逃げ去った弟子たちでしたが、神に従い、剣に頼らず、最後まで、世に仕えて歩み通された主イエスを、神さまは十字架に捨て置かれず、3日目に復活させられました。そしてペンテコステを経て、弟子たちは、剣を越える、聖書の賜物、神から言葉の力を与えられ、何者をも恐れず、福音を宣べ伝える者へと変えられて行きました。もはや剣は不要となったのです。私たちも剣を捨て、聖霊に満たされ、神の言葉に生きる者となりたいと思います。

2017年10月15日 聖霊降臨節第20主日礼拝 笹井健匡牧師

「人生のゴールを目指して」 ペトロの手紙二1章3~14節

 私は50歳になってから、人生にはゴールがあるのだ、ということを強く感じるようになりました。この先長くて30年くらいの人生かなと思う時、自分は何も残せないけれども、あかしなどもないけど、その時々の環境や体調に合わせて、楽しく、しかし懸命に生きていく積み重ねをしたいと思わされるようになりました。いつ死んでも後悔しない人生を送りたいと思うようになりました。しかし、人生のゴールを迎えるためには、キリスト者としての在り方ということは意識しなければなりません。
 今日の聖書の4節には「わたしたちは尊く素晴らしい約束を与えられています。」と記されています。この世の只中で、人間的な罪の中を生き、滅びる他ないような私たち一人一人の命を、神さまはイエスさまを通して愛され、救われ、導かれるということです。滅びではなく、永遠の命を持つ者へと変えられたのです。
 しかし、救われたからといって、怠惰な人生を送るべきではありません。神さまの愛を受けた者として、この世での生き方が、古いものから新しいものへと変えられなければなりません。そのキリスト者としての地上での歩み方が5節から7節までに記されています。そこには信仰から始まり、愛によって終わる8つの徳目が記されています。7節の際粗には、「兄弟愛に愛を加えなさい」と記されています。どちらも同じではないかと思わされますが、「兄弟愛」はギリシア語では「フィラデルフィア」という言葉で、「友愛」、友人への愛を意味します。「愛」は「アガペー」というギリシア語です。アガペーには対象の制限がありません。すべての人を愛する神の愛を意味しています。最終的に私たちは、アガペーの愛を持つ者へと変えられていくのであろうと思います。
 これらの徳目を持つならば、主イエスを知り、イエスに従って生きていくことができるのであろうと思います。しかしそうでない者たちは、目先のことに捉われ、信仰までもがなくなってしまう恐れがあります。私たちはイエスを知る者として、人生のゴールを迎えるまで、信仰、徳(道徳的実践)、知識(神を知る知識)、自制(揺るぎない堅実さ)、忍耐(能動的な忍耐)、信心、兄弟愛、愛をもって生きてることができるように努めることが大切なのであろうと思います。
 私たちは「尊くすばらしい約束」(4節)を与えられた者として、これからも主イエスに導かれ、すでに約束されて、与えられている人生のゴールを目指して、愛のある人生の歩みを成し遂げる者でありたいと思います。

2017年10月8日 聖霊降臨節第19主日 平島禎子牧師

説教題「バベルの塔」 聖書:創世記11章1~9節

 今日は、世界聖餐日・世界宣教の日です。世界にある教会、またそこに遣わされている宣教師を覚える日ですが、今年はそれを越えて、世界に生きる人々、また世界で平和のために働いている人々を覚えて祈りたいと思います。
 今日の聖書に登場する人々はノアの子孫です。ですから同じ言葉を話していました。意志疎通もうまく行っていたのではないかと思います。しかし、そのような同じ言葉を話していた人々がやった行為が、天まで届く、バベルの塔を建てる、という行為でした。有名になり、散らされないようにしようと考えたようですが、その根っこにあったのは、「高慢」でした。「天まで届く」という言葉にそれが表れているように思えます。神さまは、ノアの子孫たちの、この思い上がった思いを打ち砕かれたのだと思います。
 私たち人間の世界を見ますと、これだけ地球市民とか、国境なき医師団とかそういうことがあっても、いまだ国家が大きな力を持っています。国家になっていく過程で、そこに住む人々の言葉は、一つにまとめられて行きます。日本の標準語がいい例です。それによって教育が発展し、文化が栄えていくのも事実です。しかし、そこに潜む、「高慢」を注意深く見張っていかなければなりません。もしかしたら、国家そのものが、バベルの塔になってしまうかも知れません。
 今日の聖書で、散らされた人々はこの後どうなったでしょうか。神さまは、ノアの洪水の後、人が心に思うことは幼いころから悪い、二度とほろぼさない(創世記8:21)と言われました。ですからこのバベルの塔のときも、滅ぼすことをされずに、散らされたのでした。いわば、執行猶予を与え、助けられたのです。しかし人間は、そんなことお構いなしに、おそらく散っていった先でも、同じようにバベルの塔を建てるという行為に向かっていったのではないでしょうか。また言葉をひとつにして、そして有名になり、天まで届くバベルの塔を建てようと、そういう歩みを今日まで続けてきたように思います。
 今、戦争への道を歩もうとしている私たちの国、そして世界が、もう一度、このバベルの塔の物語を思い起こさなければなりません。神さまは私たちを滅ぼされませんが、私たち自身が、自滅する可能性は大いにあるからです。
 今、必要なのは、私たち自身の手で、天まで届く塔を建てることをやめ、高慢とさよならし、平和で安心できる世界をこそ、祈り求めていく、歩みなおしていくことだと思います。平和の主、イエスの導きを乞い求めて生きる者でありたいと思います。

2017年10月1日 聖霊降臨節第18主日礼拝 笹井健匡牧師