信仰者として生きることは、本来は、喜びの内に生きることだと言えます。ですから、平時においては、いつも喜んで、わくわく、どきどき、うきうきの日々を生きるのです。笛吹けば踊り、わいわいがやがや、生きる喜びに満ち溢れているのが、救われた者、信仰者の在り方と言えるでしょう。
しかし、何か事が起こったとき、つまり有事にあたっては、ハラハラドキドキ、取り乱すのではなく、静かに落ち着いていることが大切です。目の前に起こっている出来事に心を乱されるのではなく、私たちが信じている神さまにこそ、心を向けて冷静に一歩一歩、歩まなければいけません。
今日の聖書は、大変な時にこそ、神さまを信じて、静かにしているべきことを勧めています。背景には、アッシリアの台頭がありました。周辺国はその脅威に備えようとします。そんな中、シリアと北王国イスラエルが同盟を結びます。そして南王国ユダを仲間に引き入れようとしました。このことが、南王国ユダの人々を大きく動揺させます。
神さまはイザヤに告げられます。アハズ王に対して、この危機にあたって恐れずに、落ち着いて静かにしているように。シリアと北王国イスラエルのたくらみは、成就しないからと。
実際、この後、二つの国はアッシリアによって滅ぼされます。アハズは結局、アッシリアに対して貢物を送り生き延びますが、しかし引き換えに、アッシリアの宗教や文化を流入させ、次第に南王国ユダも衰えて行き、次のバビロンの時代に滅ぶことになります。
政治と宗教を一面的に論じることは不可能ですが、ただ、危機に際して、何をもっとも大切にするのか、ということは古今東西、時代を越えて、人類に普遍的な問いを投げかけます。
ユダヤの、この困難に満ちた歴史、その中での宗教の役割と在り方、そんな中、私たちの救い主イエス・キリストは誕生されました。神を信じ、神に依り頼む者への答えとも言えます。
喜びを忘れず、些細なことにも感動し、感謝して、日々の歩みを歩みたいと思います。そして危機の時には、しっかりと神さまを見上げ、落ち着いてすべての事を、信仰をもって静観し、何が神さまの御心であるかを祈り求めながら、信仰者としての歩みをすすめて行きたいと思います。
2021年9月26日 聖霊降臨節第19主日礼拝 笹井健匡牧師
創世記の後半には「ヨセフ物語」が記されています。ヨセフのたどった人生の歩みの中で、大きな苦しみがあったことがわかります。兄たちに奴隷としてエジプトへ売られていったこと、濡れ衣を着せられ牢獄に入れられたことをヨセフは経験します。しかし、いつも神さまがヨセフと共におられました。ヨセフは苦境を乗り越え、最終的にはエジプトのファラオに次ぐ地位を与えられ、政治的手腕を発揮します。エジプトを飢饉から救うだけでなく、他国からも食料を求めて人々がやってきて、食料を売るということができたのです。そして、ヨセフの兄たちも食料を買うためにエジプトへとやって来ました。兄たちはヨセフだとは気づきませんでした。やがてヨセフのことを知り、父ヤコブを含む兄たち一族はエジプトへ移住することになります。父ヤコブが亡くなると、兄たちはヨセフを怖れますが、ヨセフは、「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(50章20節)と言いました。ヨセフの経験した辛くて、厳しい出来事も、最終的には「益」となるために神さまが備えられた道であることを悟ったのであろうと思います。
今日の聖句、ローマの信徒への手紙8章28節には、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」と記されています。
たとえ、苦しみの中にあり、その時は絶望でしかないと思えるような時でも、神さまは私たちと共にいてくださいます。そして、私たちが苦しみながらも神さまに心を向けて祈ることは大切ですが、言葉にならないうめきのような祈りであったとしても、「霊」が執り成してくださり、私たちの苦しみの祈りを神さまに伝えてくださるのです(26節)。苦しみの時は永遠に続きません。苦しみの時が終わった後、よきことも与えられることと思います。しかし、そのよきことのベースになっているのは、実は、自分が死にそうに苦しかった出来事であるかもしれません。
パウロは「神を愛する者たち」は「ご計画に従って召された者たち」であると言っています。私たちが神を愛することと神さまがご計画に従って召されたということはイコールであり、私たちと神さまは相互通行をしているのであると思います。神と人との協働によって、その人自身も高められ、周囲もまたよい環境となり、ひいては、国家、世界にも真の平和を創り出すことができるのではないかと思います。そのためには、被造物全体が生みの苦しみをなし、目に見えないものを望み、忍耐して待ち望む(25節)ことをしなければならないのかもしれません。
これからも私たちの人生には色々なことがあると思いますが、「万事が益となる」ということを信じて、新しい歩みをなしていく者でありたいと思います。
2021年9月19日 聖霊降臨節第18主日 平島禎子牧師
「赦す」というのは、口で言うほど簡単ではありません。話し言葉としての「ゆるす」の語源は「ゆるくする(緩くする)」だそうです。だれかを「ゆるせない」とき、心は緊張して固くなっています。それを緩くするのが、もともと、「ゆるす」ということです。また「聴す」と書いて「ゆるす」と読むこともあるそうです。なるほど、心から相手の話を聞くことができれば、それはもうすでに「赦し」が始まっているのかも知れません。
イエスさまは、それまで優勢だった厳しい神、恐ろしい神というイメージを、暖かい、愛の神、近しい神に変えられました。しかしそれは大変な作業でした。尊い命をもって、十字架と復活を経て、はじめて弟子たちは理解することができたのだと思います。
今日の聖書は、それまでの古い生き方を捨て、新しい生き方、在り方を勧めています。律法によっては結局救われ得ないことが前提にあります。17~24節では、救われずに堕落して行く、滅びに向かって行く古い人が記されています。それに対して、25節以下でそれまでの在り方を変換し、新しい人として生きることが勧められています。そしてその、最終的な結論として、互いに許し合うことが命ぜられています。
「赦し合い」は、愛し合うことの中心です。イエス・キリストによって神が愛であることが示されました。神はイエス・キリストによってすべての罪を赦されたのです。ここに愛があるように、私たちが互いに許し合うことによって、愛は全うされるのです。
現実の世界では、なかなか難しい面があります。しかし難しいからと言ってあきらめてはいけません。イエスさまによって救われ、その愛を知らされた者として、互いに愛し合って行くことこそが、人類の救いへの道だと信じます。
イエスさまによって赦された者として、私たちも互いに赦し合う歩みを為して行きたいと思います。いつの日か、すべての憎しみ、怒り、暴力が克服される日を信じて。
2021年9月12日 聖霊降臨節第17主日礼拝 笹井健匡牧師
子供の頃大好きだった絵本に、「アリババと40人の盗賊」があります。中でも「開け、ゴマ!」と言う決め台詞は、いつもドキドキしながら聞いていたような記憶があります。自分でも、「開け」の後に何を言おうか、いろいろと考えた記憶があります。一言の呪文で、目の前の世界が開ける、ということに、子どもながらに、大きな興奮を覚えたように思います。また、何かのピンチに陥った時に、その状況を打開すべく、心の中で「開け、○○」と言っていました。現実はそんな簡単には行かないわけですが…。
イエスさまは、耳が聞こえず舌の回らない人を癒す言葉として、「開け」を用いられました。「開け」というと、閉じていた目を開くイメージがあります。しかし、イエスさまは目の見えない人に対してではなく、耳が聞こえず舌の回らない人に対して使われました。
この人は、何かが閉じていたのだと思います。その結果として、耳と舌にしょうがいがあったのではないかと思います。
想像をたくましくすれば、幼い頃に何か強烈な体験をしたのかも知れません。「見ざる聞かざる言わざる」ではありませんが、耳にしたくないことを聞いてしまったために、聞くことをやめ、そしてその結果、うまく話すことも出来なくなったのではないかと思います。
イエスさまは、その心の傷をいやされたのではないかと思います。そのことで閉ざしてしまった心を再び開けられたのではないでしょうか。
イエスさまは、今も、私たちにも、「開け」と言われているように思います。そのイエスさまの言葉を受けて、私たち一人ひとりも、そして教会もさらに開かれて行き、この地域にある人々の憩いの場になればどんなにいいことでしょう。
自らの心の内にある悩みや傷を、イエスさまに打ち明け、そしてイエスさまから言葉をいただいて、真に癒された者として、新しく生きる者となって行きたいと思います。
2021年9月5日 聖霊降臨節第16主日礼拝 笹井健匡牧師