「赦す」というのは、口で言うほど簡単ではありません。話し言葉としての「ゆるす」の語源は「ゆるくする(緩くする)」だそうです。だれかを「ゆるせない」とき、心は緊張して固くなっています。それを緩くするのが、もともと、「ゆるす」ということです。また「聴す」と書いて「ゆるす」と読むこともあるそうです。なるほど、心から相手の話を聞くことができれば、それはもうすでに「赦し」が始まっているのかも知れません。
イエスさまは、それまで優勢だった厳しい神、恐ろしい神というイメージを、暖かい、愛の神、近しい神に変えられました。しかしそれは大変な作業でした。尊い命をもって、十字架と復活を経て、はじめて弟子たちは理解することができたのだと思います。
今日の聖書は、それまでの古い生き方を捨て、新しい生き方、在り方を勧めています。律法によっては結局救われ得ないことが前提にあります。17~24節では、救われずに堕落して行く、滅びに向かって行く古い人が記されています。それに対して、25節以下でそれまでの在り方を変換し、新しい人として生きることが勧められています。そしてその、最終的な結論として、互いに許し合うことが命ぜられています。
「赦し合い」は、愛し合うことの中心です。イエス・キリストによって神が愛であることが示されました。神はイエス・キリストによってすべての罪を赦されたのです。ここに愛があるように、私たちが互いに許し合うことによって、愛は全うされるのです。
現実の世界では、なかなか難しい面があります。しかし難しいからと言ってあきらめてはいけません。イエスさまによって救われ、その愛を知らされた者として、互いに愛し合って行くことこそが、人類の救いへの道だと信じます。
イエスさまによって赦された者として、私たちも互いに赦し合う歩みを為して行きたいと思います。いつの日か、すべての憎しみ、怒り、暴力が克服される日を信じて。
2021年9月12日 聖霊降臨節第17主日礼拝 笹井健匡牧師