• 記事検索

RSS

 人間はすべてのものの最後の存在として創造されました。しかも、これまでは言葉で創造の業をなされてきた神でしたが、人間の場合は異なっていました。「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」と27節に記されています。口語訳聖書と協会訳聖書では、「神のかたちに創造された。」と訳されています。人間は、神のかたちに、創造されたのです。神さまは、人間を創造し、祝福されます。神さまは、ご自分のかたちに創造された人間に、他の被造物にはない権能をお与えになりました。それは、他の被造物を支配すること、治めることです。人間が秩序を持って、他の被造物を治めることを神さまは望んでおられ、そうなるように祝福をされたのです。

 教会の暦は今日から降誕前となりました。クリスマスまでのカウントダウンが始まりました。イエスさまもまた神のかたちとしての人間の姿でこの世に誕生されたことを思います。このイエスさまの在り方というのは、「神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じになりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死にいたるまで従順」(フィリピ2・6~8)なものでありました。私たち人間は、この地上に現わされた救い主イエスさまのかたちとしても造られているのです。このイエスさまに倣うことによって、神の真のかたちに近づくことができるのではないかと思います。

 神さまは、天地万物を創造され、「極めてよかった」と言われました。今の世界は、その「きわめてよかった」と言われた世界からかけ離れたものとなってしまいました。神のかたちとして造られた人間が罪を犯し、堕落した結果、世界で戦争が起き、悲惨な状態が繰り広げられています。大地、動植物も、人間が正しく治めなかったために、気候変動が起き、温暖化、砂漠化が進み、地震や洪水も人災と言えるものがあるのではないでしょうか。動植物の中には絶滅危惧種もあります。人間が生物の世界を神さまから言われたように支配する、治めているようには思えません。

 人類は人類は真の神に立ち帰り、新しく創造され、新しい人間として、新しい世界を造っていくべきではないかと思います。新しい人間になるということは、「神にかたどって造られた新しい人を身につけ」(エフェソ4・32)ることです。

クリスマスまでのカウントダウンが始まったこの日、神さまが、万物を創造されたことを覚え、その世界が極めてよかったことを心に刻み、イエスさまによって、神のかたちがこの世にもたらされ、そのイエスさまを信じることによって、神さまにかたどって造られた新しい人間になり、この混沌とした世の中にあって、光を掲げることができるよう、祈る者でありたいと思います。


    2023年10月29日 降誕前第9主日 平島禎子牧師



 15日の日曜日、朝からマラソンの中継がありました。若い頃はあまり見たことがなかったのですが、年をとって来ると、まあまあよく見るようになりました。走る選手たちの姿に、人生の競争、旅路を感じるのだと思います。一生懸命に走る姿に、自分自身の人生を振り返り、また未来への思いをあらたにされる気がします。

 今日の聖書にも、「競争」という言葉が出て来ます。信仰の人生を、最後までまっとうしようと呼び掛けられています。一人ひとり、持ち場、内容は違えど、ともに主イエスにある歩みを最後までやり抜こうというわけです。

 11章では、「信仰」について、多くの先達たちの例を挙げながら、ヤハウェを信じて生き抜いた人々のことが記されています。そして、それでも彼ら彼女らは、まだ完全な状態に達しなかったと締めくくるのです。

 ヤハウェへの信仰をもって生きた人々に足りなかったものは、私たちキリスト教の側からすれば、イエスさま、ということになります。イエスさまは信仰の創始者、完成者と言われていますが、何によって完成したのでしょうか。それは「愛」によってです。今日の聖書で言えば「‥喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍」ばれたのも、「‥反抗を忍耐された」のも、私たち人間に対するイエスさまの「愛」ゆえです。

 今、私たちはあの、第2次世界大戦後、1948年のイスラエル建国から一番恐れていた事態を目の当たりにすることになってしまいました。先に触れました11章には「国々を征服し」、「敵軍を敗走させ」等の、信仰の持つ、危険な面を予測させるかのような言葉がちりばめられています。決してユダヤ教を否定するとかではなく、イエスさまを信じる者として、信仰は大切だけれども、「愛」こそが最も大切であることを、声を大にして言わなければなりません。歴史的に見れば、私たちのキリスト教もローマの国教となり、庶民から離れ、逆に民衆を苦しめる道具となり、イスラム教が誕生しました。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の、言わば三つ巴問題が解決されるように、心から祈りたいと思います。

 信仰の完成は、愛によってこそなされることを、私たちはイエスさまから身をもって教えられました。今の、このような時にこそ、イエスさまの姿をしっかりと思い起こし、愛をもって、世界の人々のことを祈り続ける者でありたいと思います。

 

   2023年10月22日 聖霊降臨節第22主日礼拝 笹井健匡牧師


 宮田教会の創立者の服部団次郎牧師は、旧産炭地筑豊で伝道牧会をされました。始めの3年間は炭鉱労働者として働きながらの伝道でした。エネルギー革命が起き、炭鉱が閉山して行く中で、服部牧師はここにとどまるべきか悩まれた結果、どこにも行くことができず、筑豊にとどまらなければならない人たちがいる、それらの人たちと運命を共にすることを決意されます。そして、服部牧師は、職を失い、行き場もない人たちの人間性を回復し、その自主性を回復するための塔、復権の塔建設をなされます。この国を支えながらも、その労を顧みられることなく、尊い命を失った人たち、絶えず危険にさらされながら働いてきた人たち、また、外国から連れて来られた人たち、それらの一人一人が尊厳を持つ人間として存在したのだということ、そして、それらの人たちの人間性の回復を、復権の塔は私たちに伝えているのです。服部牧師にとって、炭鉱閉山後も筑豊の地にとどまり、炭鉱労働者の人たちと連帯して生きるということは、自分の十字架を背負って生きることだったのではないだろうか、と思わされます。

 イエスさまは、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(34節)と言われます。安易な救いを求めるのではなく、自らも苦しむ者として、十字架を背負いなさい、と言われるのです。イエスさまに従うということを実際に始めると、自分の十字架を背負って歩こうとすると、それまでに持っていた価値観の転倒が起こるのではないかと思います。恐ろしくて、怖くて、なかなか踏み出せないことも、腹をくくって始めてみると、確かにしんどいし、苦しいけれども、以前とは違う喜び、充実感、といったものを感じることができるのかもしれません。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスさまに従う」ことによって、本当の命を私たちは得ることができるのです。

 しかし、私たちは、それぞれに大なり、小なり自分の苦しみを抱えています。そのような者に隣人の苦しみを抱えることなどできるはずはない、とも思わされます。しかし、私たちの苦しみは、イエスさまが知っていてくださる、イエスさまが共に負ってくださっている苦しみである、ということを知らなければなりません。私たちが自分を捨て、自分の十字架を背負っている先には、より大きな十字架を背負って歩いておられるイエスさまがおられるのです。私たち一人一人置かれた場にあって、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスさまに従って行く、そのような信仰の歩みができるよう、祈りつつなしていく者でありたいと思います。


   2023年10月15日 聖霊降臨節第21主日 平島禎子牧師


 24日(日)の礼拝のとき、司会をしていたのですが、讃美歌を歌うとき、いつものようにスムーズに声が出ないので、あれおかしいな、と思いながらも、がんばって声を出して礼拝を終えました。その日の夜、高熱が出て、翌月曜日にかかりつけの医師に診てもらうと、コロナでした。数年前にインフルエンザになったときは、薬局で吸入しただけで、元気になりましたが、今回は、一般的な風邪薬と解熱剤だけで、水分を取りながら、3日間は、ほんとにきつかったです。その後、平島禎子師にもうつしてしまい、さらに多くの教会の皆さんにもうつしてしまっていたことが判明しました。日曜の礼拝の、まちがった「がんばり」が最悪の事態を招いたのでした。心から反省しています。

 マタイ福音書は、世界宣教命令をもって福音書を閉じます。以前にもお話しましたが、マタイはここにもう一つ最大のテーマを織り込んでいます。それはインマヌエル、神我らと共にいます、です。福音書のはじめの1章のイエスの誕生物語で用いた「インマヌエル」を最後の言葉として、世の終わりまで、「インマヌエル」だと記します。

 今回は、説教題を決めるときから、「いつも」という言葉が気になっていました。もともとのおおざっぱな予定としては、順調な時だけでなく、不調な時も、神さまをどこかに忘れてしまっているときでも、つまりこちらの、人間の側の状態がどのようなものであろうとも、神さまは「いつも」共にいて下さる、というような感じで考えていました。それはどこか他人事であったり、軽い一般論であったりしていました。

 神さまはそんな私に、いやいやこれは、お前に言っているのだ、とばかりに、コロナを用いられました。感染症は、孤独なたたかいです。隔離が原則です。しかも強烈な痛み、苦しみが長時間続きます。「神さま助けて下さい、イエスさま一緒に居て下さい」、自然に心から、ほとばしりました。

 今日のイエスさまの言葉を受けて、世界に出て行った弟子たちは、大変な思いをして福音を伝えたことだろうと思います。特に孤独で、飢え渇く時、「いつも」という言葉がどれだけ危機を救ったことでしょう。必ず「いつも」共に居てくださるイエスさまだったからこそ、あのような伝道ができたのでしょう。

私たちも、周りの状況がどんなに悪く思えようとも、「いつも共に」いて下さるイエスさまをしっかりと感じながら、信仰の歩みをすすめていく者でありたいと思います。

   2023年10月8日 聖霊降臨節第20主日礼拝 笹井健匡牧師