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「信仰の完成」 ヘブライ人への手紙12章1~3節

 15日の日曜日、朝からマラソンの中継がありました。若い頃はあまり見たことがなかったのですが、年をとって来ると、まあまあよく見るようになりました。走る選手たちの姿に、人生の競争、旅路を感じるのだと思います。一生懸命に走る姿に、自分自身の人生を振り返り、また未来への思いをあらたにされる気がします。

 今日の聖書にも、「競争」という言葉が出て来ます。信仰の人生を、最後までまっとうしようと呼び掛けられています。一人ひとり、持ち場、内容は違えど、ともに主イエスにある歩みを最後までやり抜こうというわけです。

 11章では、「信仰」について、多くの先達たちの例を挙げながら、ヤハウェを信じて生き抜いた人々のことが記されています。そして、それでも彼ら彼女らは、まだ完全な状態に達しなかったと締めくくるのです。

 ヤハウェへの信仰をもって生きた人々に足りなかったものは、私たちキリスト教の側からすれば、イエスさま、ということになります。イエスさまは信仰の創始者、完成者と言われていますが、何によって完成したのでしょうか。それは「愛」によってです。今日の聖書で言えば「‥喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍」ばれたのも、「‥反抗を忍耐された」のも、私たち人間に対するイエスさまの「愛」ゆえです。

 今、私たちはあの、第2次世界大戦後、1948年のイスラエル建国から一番恐れていた事態を目の当たりにすることになってしまいました。先に触れました11章には「国々を征服し」、「敵軍を敗走させ」等の、信仰の持つ、危険な面を予測させるかのような言葉がちりばめられています。決してユダヤ教を否定するとかではなく、イエスさまを信じる者として、信仰は大切だけれども、「愛」こそが最も大切であることを、声を大にして言わなければなりません。歴史的に見れば、私たちのキリスト教もローマの国教となり、庶民から離れ、逆に民衆を苦しめる道具となり、イスラム教が誕生しました。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の、言わば三つ巴問題が解決されるように、心から祈りたいと思います。

 信仰の完成は、愛によってこそなされることを、私たちはイエスさまから身をもって教えられました。今の、このような時にこそ、イエスさまの姿をしっかりと思い起こし、愛をもって、世界の人々のことを祈り続ける者でありたいと思います。

 

   2023年10月22日 聖霊降臨節第22主日礼拝 笹井健匡牧師


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