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「いつも共に」 マタイによる福音書28章16~20節

 24日(日)の礼拝のとき、司会をしていたのですが、讃美歌を歌うとき、いつものようにスムーズに声が出ないので、あれおかしいな、と思いながらも、がんばって声を出して礼拝を終えました。その日の夜、高熱が出て、翌月曜日にかかりつけの医師に診てもらうと、コロナでした。数年前にインフルエンザになったときは、薬局で吸入しただけで、元気になりましたが、今回は、一般的な風邪薬と解熱剤だけで、水分を取りながら、3日間は、ほんとにきつかったです。その後、平島禎子師にもうつしてしまい、さらに多くの教会の皆さんにもうつしてしまっていたことが判明しました。日曜の礼拝の、まちがった「がんばり」が最悪の事態を招いたのでした。心から反省しています。

 マタイ福音書は、世界宣教命令をもって福音書を閉じます。以前にもお話しましたが、マタイはここにもう一つ最大のテーマを織り込んでいます。それはインマヌエル、神我らと共にいます、です。福音書のはじめの1章のイエスの誕生物語で用いた「インマヌエル」を最後の言葉として、世の終わりまで、「インマヌエル」だと記します。

 今回は、説教題を決めるときから、「いつも」という言葉が気になっていました。もともとのおおざっぱな予定としては、順調な時だけでなく、不調な時も、神さまをどこかに忘れてしまっているときでも、つまりこちらの、人間の側の状態がどのようなものであろうとも、神さまは「いつも」共にいて下さる、というような感じで考えていました。それはどこか他人事であったり、軽い一般論であったりしていました。

 神さまはそんな私に、いやいやこれは、お前に言っているのだ、とばかりに、コロナを用いられました。感染症は、孤独なたたかいです。隔離が原則です。しかも強烈な痛み、苦しみが長時間続きます。「神さま助けて下さい、イエスさま一緒に居て下さい」、自然に心から、ほとばしりました。

 今日のイエスさまの言葉を受けて、世界に出て行った弟子たちは、大変な思いをして福音を伝えたことだろうと思います。特に孤独で、飢え渇く時、「いつも」という言葉がどれだけ危機を救ったことでしょう。必ず「いつも」共に居てくださるイエスさまだったからこそ、あのような伝道ができたのでしょう。

私たちも、周りの状況がどんなに悪く思えようとも、「いつも共に」いて下さるイエスさまをしっかりと感じながら、信仰の歩みをすすめていく者でありたいと思います。

   2023年10月8日 聖霊降臨節第20主日礼拝 笹井健匡牧師


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